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最近気になる記事をbookmarkしつつ、まとめられなかったので、今日は企画屋のはしくれとして少し自分自身のために考えて見たいと想います。

今回の一連の流れの中で、政府の対応についてそのとりまき含めた議論、別の論点での電力問題の議論、そして復興についての議論とあり、その中で如何に対応について真剣に議論し(もちろん私の様な一般人ではなく、議論の壇上に立てる人。ただし、一般人は一般人で、社会の縮図である企業内、自治体内、友人達の関係、親族の関係、において集団における行動とそのリスクについてよくよく考えるいい機会になります)、そしてクリティカルパスを将来構想を鑑み良く考えた上で、協力なリーダーシップを持ってそれを遂行していく。そういう一連の流れを理解するには、可能な限り情報に接する機会をつくることが重要だと、今回強く感じました。

今回の記事は、1)今回の政府の対応について、2)電力についての議論、3)それを踏まえた復興・復活のロードマップについて、という流れでまとめてlogしていきたいと想います。長めの記事になると思いますが、御容赦ください。

菅政権の黄昏 山口 巌
配信元:アゴラ

国民にフラストレーションとストレスを与え続けた菅政権も、いよいよ最後の時を迎える様だ。幕を引くのは自民党である。

ロイターが昨日伝える所では自民党を中核とする野党が、がれき処理をはじめとした当面必要な財源確保の為の、2011年度第1次補正予算に就いては賛成に回る事はほぼ既定事実の様である。しかしながら、赤字国債発行を認める特例公債法の与野党間協議は暗礁に乗り上げている。

[東京 28日 ロイター] 11年度の赤字国債発行を認める特例公債法の成立の見通しがたたない。政府・民主党は1次補正予算案と合わせての採決を目指したが、与野党協議が不調に終わり、それぞれの採決を切り離した結果、展望が開けなくなった。 自民党の林芳正政調会長代理(自民党シャドー・キャビネット財務大臣)は2月のロイターのインタビューで、11年度特例公債法案が10年度内に成立しない場合でも、当面は税収や政府短期証券でつなぐことが可能なため、「7月ごろまでは資金がなくなることはない」と述べ、バラマキ予算である民主党マニフェストの破たんを質すことこそ「本筋」の政策論だとしていた


政策通の自民党林調会長代理が指摘する通り、当面の5月、6月の遣り繰りはつくとしても、7月以降は菅首相が辞任するか、歳入欠陥により政府が機能不全に陥るかの2者択一であり、如何に保身を身上とする菅首相であっても辞任は止む無しであろう。

阪神淡路大震災で実績のある、政令で設置できる復興委員会を設置せず、法律がないと設置できない復興庁なるものに拘泥し、結果墓穴を掘ったのではないか?

結局の所、保身に拘る余り、政府主導での復興委員会設置を忌避し、野党を巻き込む事でのリスク分散を図り、来年設置予定と聞く復興庁なるものを規定事実化する事で政権の延命を図ったのではないか?
以前、記事に纏めたが、こんな組織が稼働する筈かない。
看過出来ないのは、被災地で苦しむ避難民が置き去りにされている点である。

twitter上での、東大、玉井克哉教授の呟きが辛辣である。断っておくが玉井先生はバランス感覚に優れた極めて温厚な方であり、最初読んだ時は別人かと疑った程である。

政令で設置できる阪神淡路復興委員会という前例が目の前にありながら、法律がないと設置できない復興庁なるものにこだわるのは、純粋に政府の問題であり、国会の構成とは無関係です。

東京にいるとどうしても原発に目が向きがちですが、それと震災被害は別です。原発に目を奪われ、震災の復興が滞ってきたのは否定できないし、それについては全責任が現政権にあると思います。

小政党から出た村山連立政権でできたことが、なぜ衆議院単独過半数の政権にできないのか。政令と予算は意のままなのに、なぜ法律でやろうとするのか。しかもそのための与野党協議をなぜ四月に始めるのか。すべて、現政権の問題です。なお繰り返しになりますが、これらは専ら震災復興の問題です。

端的に無能なんですよ。政治学的には内閣と別に各省が権力を持っているわけで、権限を奪おうとすれば抵抗するのが当然。それがわかってるのに強行を図る。無能の一語

もちろんそうです。だから野党も党内野党も協力しない。RT @myikegami: …復興にかこつけて、自分の政治生命の延命を図っていると言われてもしょうがない状態かも

http://twitter.com/#!/tamai1961

玉井先生にここまで言われる様では、菅政権の余命は持って1~2ヶ月と言う所ではないだろうか。立つ鳥跡を濁さずで、是非とも菅首相には潔く辞任して戴きたいものである。

所で、菅政権最後の仕事となるであろう1次補正予算案の中身は如何なるものであろうか?

東大、岩本教授のブログが実に判り易く説明してくれている。

今回の補正予算には,既存経費の削減による財源確保が不十分,基礎年金国庫負担の停止は適切ではない,という2つの重大な問題がある。

国会公務員人件費の削減も取り沙汰されていたが,盛り込まれなかった。もともと民主党のマニフェストは,国家公務員人件費の2割削減をうたっていたのだが。


菅政権の特徴の一つは徹底したマニュフェストの軽視、無視であるが、国家公務員人件費の2割削減も無視しているのであろうか?看過出来ない事実である。

財務省公表資料によれば国家公務員数は56.4万人、人件費は5.2兆円との事である。国家公務員人件費の2割削減が実行されれば1兆円程度の財源創出となるが、何もやっていないと言う事であろうか?政府は国民に対しこの事を説明すべき強く思う。

予備費8100億円を使用する他は既存経費を削減して国債を発行しないこととしているが,これはまやかしである。経費削減の大部分を占めるのは,基礎年金国庫負担のための年金特別会計への繰入の2.5兆円減額である。年金特別会計の方では,国庫負担が入らないことになり,その分,積立金が減少する。そこから生じる重大な問題は2つ。
第1は,国債が発行されなくても,公的年金積立金が減るため政府全体では資産が減少している。つまり,純債務が増加しており,財政赤字が発生している。国債を発行しないことを強調することでこの事実が隠されてしまう。
第2は,復興経費を公的年金で負担することになるが,このままでは将来の世代がどこかの時点でそのつけを払わされることになるだろう。復興財源を誰が負担するのか,を議論することなく,国債を発行しないという名目だけで将来の世代が負担することを決めてしまうのは正当な政策決定だろうか。


深く共鳴する。不測の支出に対し、銀行借り入れを増やしたくないという理由で来月学校に支払わねばならない子供の給食費を流用する親が何処の世界にいるだろうか?

国債残高抑制は重要だが、財政規律の順守が最優先事項の筈である。

「世代間の公平性を確保しなければならないが、先述した若い世代のボランティア活動に対する返礼、さらに若い世代が災害後の日本経済・日本社会の復興の主体となるはずであることから、高齢世代が若年世代の活動を少しでも支援する方向性をもった貢献方法に重きを置くべきであろう。」

これにも深く共鳴する。現政権は余りに若者世代を食い物にしている。怒りすら覚える。
日本の老人は金持ちである。それは、日本の金融資産の60%以上が60才以上の世代に保有されている事実から明らかである。財務省公表資料によれば92兆円の歳出総額に対し、社会保障費は27兆円、約30%にも達する。

批判を恐れず露骨に言ってしまえば、金持ちの老人を社会保障費で手厚く遇し、それにより生じた借金を若い世代に付け回しているだけではないか? 政権交代が起こり、菅内閣に於いてこの歪な仕組みを是正すべく本来何らかの方向性が示されるべきであった。しかしながら、何も出来ていない。1次補正予算案の焙り出すものは、お粗末で破廉恥極まりない菅政権の実態、本質であると思う。

これでは、野党による内閣不信任案の提出も致し方ない。 山口 巌



よく「あちらを立てればこちらが立たず」とというトレードオフ的な事象は世の中にはたくさんありますが、そこを何とかするために権限をお金を持っているのだから、もう少しきちんと説明してもらいたい。というか、どちらにしても100%賛成論なんてないのだから、決めたことに対してきちんと理論的に説明でき、リーダーシップにより国民を導いてもらいたい。
超法規的なことが簡単にまかり通るとは想いませんが、それでも何のためのリーダーか、ということからすると、今回の対応は多少「ぬかった」感が否めません。
そんなことだから、あからさまに参与が涙ぐみながら会見し、且つ辞意表明文を公開するのです。その対応をどうするかと想っていたら「見解の相違」とか、なんとも。もう少し学習したらどうかな。だめなら辞めて責任放棄したらとも想う。がんばって続けてもダメだと想うし。

参与辞意表明内容全掲(Special Thanks NHKかぶん)

平成23年4月29日

内閣官房参与の辞任にあたって(辞意表明)

内閣官房参与 小佐古敏荘

平成23年3月16日、私、小佐古敏荘は内閣官房参与に任ぜられ、原子力災害の収束に向けての活動を当日から開始いたしました。そして災害後、一ヶ月半以上が経過し、事態収束に向けての各種対策が講じられておりますので、4月30日付けで参与としての活動も一段落させて頂きたいと考え、本日、総理へ退任の報告を行ってきたところです。
 なお、この間の内閣官房参与としての活動は、報告書「福島第一発電所事故に対する対策について」にまとめました。これらは総理他、関係の皆様方にお届け致しました。

 私の任務は「総理に情報提供や助言」を行うことでありました。政府の行っている活動と重複することを避けるため、原子力災害対策本部、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、文部科学省他の活動を逐次レビューし、それらの活動の足りざる部分、不適当と考えられる部分があれば、それに対して情報を提供し、さらに提言という形で助言を行って参りました。
 特に、原子力災害対策は「原子力プラントに係わる部分」、「環境、放射線、住民に係わる部分」に分かれますので、私、小佐古は、主として「環境、放射線、住民に係わる部分」といった『放射線防護』を中心とした部分を中心にカバーして参りました。
 ただ、プラントの状況と環境・住民への影響は相互に関連しあっておりますので、原子炉システム工学および原子力安全工学の専門家とも連携しながら活動を続けて参りました。
 さらに、全体は官邸の判断、政治家の判断とも関連するので、福山哲郎内閣官房副長官、細野豪志総理補佐官、総理から直命を受けている空本誠喜衆議院議員とも連携して参りました。

 この間、特に対応が急を要する問題が多くあり、またプラント収束および環境影響・住民広報についての必要な対策が十分には講じられていなかったことから、3月16日、原子力災害対策本部および対策統合本部の支援のための「助言チーム(座長:空本誠喜衆議院議員)」を立ち上げていただきました。まとめた「提言」は、逐次迅速に、官邸および対策本部に提出しました。それらの一部は現実の対策として実現されました。
 ただ、まだ対策が講じられていない提言もあります。とりわけ、次に述べる、「法と正義に則り行われるべきこと」、「国際常識とヒューマニズムに則りやっていただくべきこと」の点では考えていることがいくつもあります。今後、政府の対策の内のいくつかのものについては、迅速な見直しおよび正しい対策の実施がなされるよう望むところです。

1.原子力災害の対策は「法と正義」に則ってやっていただきたい

 この1ヶ月半、様々な「提言」をしてまいりましたが、その中でも、とりわけ思いますのは、「原子力災害対策も他の災害対策と同様に、原子力災害対策に関連する法律や原子力防災指針、原子力防災マニュアルにその手順、対策が定められており、それに則って進めるのが基本だ」ということです。

 しかしながら、今回の原子力災害に対して、官邸および行政機関は、そのことを軽視して、その場かぎりで「臨機応変な対応」を行い、事態収束を遅らせているように見えます。
 
 とりわけ原子力安全委員会は、原子力災害対策において、技術的な指導・助言の中核をなすべき組織ですが、法に基づく手順遂行、放射線防護の基本に基づく判断に随分欠けた所があるように見受けました。例えば、住民の放射線被ばく線量(既に被ばくしたもの、これから被曝すると予測されるもの)は、緊急時迅速放射能予測ネットワークシステム(SPEEDI)によりなされるべきものでありますが、それが法令等に定められている手順どおりに運用されていない。法令、指針等には放射能放出の線源項の決定が困難であることを前提にした定めがあるが、この手順はとられず、その計算結果は使用できる環境下にありながらきちんと活用されなかった。また、公衆の被ばくの状況もSPEEDIにより迅速に評価できるようになっているが、その結果も迅速に公表されていない。

 初期のプリュームのサブマージョンに基づく甲状腺の被ばくによる等価線量、とりわけ小児の甲状腺の等価線量については、その数値を20、30km圏の近傍のみならず、福島県全域、茨城県、栃木県、群馬県、他の関東、東北の全域にわたって、隠さず迅速に公開すべきである。さらに、文部科学省所管の日本原子力研究開発機構によるWSPEEDIシステム(数10kmから数1000kmの広域をカバーできるシステム)のデータを隠さず開示し、福島県、茨城県、栃木県、群馬県のみならず、関東、東北全域の、公衆の甲状腺等価線量、並びに実効線量を隠さず国民に開示すべきである。

 また、文部科学省においても、放射線規制室および放射線審議会における判断と指示には法手順を軽視しているのではと思わせるものがあります。例えば、放射線業務従事者の緊急時被ばくの「限度」ですが、この件は既に放射線審議会で国際放射線防護委員会(ICRP)2007年勧告の国内法令取り入れの議論が、数年間にわたり行われ、審議終了事項として本年1月末に「放射線審議会基本部会中間報告書」として取りまとめられ、500mSvあるいは1Svとすることが勧告されています。法の手順としては、この件につき見解を求められれば、そう答えるべきであるが、立地指針等にしか現れない40-50年前の考え方に基づく、250mSvの数値使用が妥当かとの経済産業大臣、文部科学大臣等の諮問に対する放射線審議会の答申として、「それで妥当」としている。ところが、福島現地での厳しい状況を反映して、今になり500mSvを限度へとの、再引き上げの議論も始まっている状況である。まさに「モグラたたき」的、場当たり的な政策決定のプロセスで官邸と行政機関がとっているように見える。放射線審議会での決定事項をふまえないこの行政上の手続き無視は、根本からただす必要があります。500mSvより低いからいい等の理由から極めて短時間にメールで審議、強引にものを決めるやり方には大きな疑問を感じます。重ねて、この種の何年も議論になった重要事項をその決定事項とは違う趣旨で、「妥当」と判断するのもおかしいと思います。放射線審議会での決定事項をまったく無視したこの決定方法は、誰がそのような方法をとりそのように決定したのかを含めて、明らかにされるべきでありましょう。この点、強く進言いたします。


2.「国際常識とヒューマニズム」に則ってやっていただきたい

 緊急時には様々な特例を設けざるを得ないし、そうすることができるわけですが、それにも国際的な常識があります。それを行政側の都合だけで国際的にも非常識な数値で強引に決めていくのはよろしくないし、そのような決定は国際的にも非難されることになります。

 今回、福島県の小学校等の校庭利用の線量基準が年間20mSvの被曝を基礎として導出、誘導され、毎時3.8μSvと決定され、文部科学省から通達が出されている。これらの学校では、通常の授業を行おうとしているわけで、その状態は、通常の放射線防護基準に近いもの(年間1mSv,特殊な例でも年間5mSv)で運用すべきで、警戒期ではあるにしても、緊急時(2,3日あるいはせいぜい1,2週間くらい)に運用すべき数値をこの時期に使用するのは、全くの間違いであります。警戒期であることを周知の上、特別な措置をとれば、数カ月間は最大、年間10mSvの使用も不可能ではないが、通常は避けるべきと考えます。年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所の放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。年間10mSvの数値も、ウラン鉱山の残土処分場の中の覆土上でも中々見ることのできない数値で(せいぜい年間数mSvです)、この数値の使用は慎重であるべきであります。

 小学校等の校庭の利用基準に対して、この年間20mSvの数値の使用には強く抗議するとともに、再度の見直しを求めます。

 また、今回の福島の原子力災害に関して国際原子力機関(IAEA)の調査団が訪日し、4回の調査報告会等が行われているが、そのまとめの報告会開催の情報は、外務省から官邸に連絡が入っていなかった。まさにこれは、国際関係軽視、IAEA軽視ではなかったかと思います。また核物質計量管理、核査察や核物質防護の観点からもIAEAと今回の事故に際して早期から、連携強化を図る必要があるが、これについて、その時点では官邸および行政機関は気付いておらず、原子力外交の機能不全ともいえる。国際常識ある原子力安全行政の復活を強く求めるものである。

以上



あぁ・・・どうするの。いったい。
別に首相が嫌いとか批判したいわけではないのですが、行動と結果が全てのリーダーがそういう意識では・・と思いつつ、とりまきも何してンの?って想いつつ、そんな記事をひとつlogします。

市民運動家首相の限界
配信元:月明飛錫

1.政治の機能不全
震災対応や先の統一地方選挙の敗北を受けて、菅首相への批判や退陣を求める動きが加速している。3月11日におこった東日本大震災から50日が経過したが、これは天災ではなく人災であるという言い方を超え、「菅災」との声まであがっている。
参考:時事ドットコム:「菅災だ」「官邸去れ」=野党が辛辣批判

政治が機能不全に陥っていることは、今回の大規模な被害に、平時の法体系では対応しきれないにもかかわらず、一ヵ月半経っても震災関連の立法が行われていなかったことからも明らかだ。
1つ例をあげよう。
1000年に1度ともいわれる大津波はあらゆるものを押し流し、船が陸に打ち上げられ、民家に自動車が乗り上げた。
現行の法律では、修理すれば使用可能な自動車や船舶を、持ち主の許可なくして撤去したり壊したりすることはできない。しかし、死者・行方不明者が2万人を超え、10万人以上が避難生活を送っているなかでは、これらの自動車や船舶の持ち主がどこにいるか、それどころか持ち主の生死すらも不明な場合がある。それにもかかわらず、持ち主の許可を得ることができないことで、これらの撤去作業が難航し、復旧・復興の大きな妨げになっている。

政府はこうした自動車や船舶の処分について、まだ議論をしている最中とのこと。
以下、「松本内閣府特命担当大臣記者会見要旨 平成23年月4日26日」より。

(問)災害廃棄物についてですけれども、自動車や船舶については、遺失物法を適用するという報道がありますけれども、いかがでしょうか。

(答)いろいろ、今、樋高政務官のところで、研究といいますか、早い時期に結論がでると思いますけれども、様々、今、議論をしているところでありまして、船舶につきましても、保険との関係とか、移動するときの保険であるとか、様々、今、やっているところでありますし、もう動き出しているところもありますから、そこに対して、私どもも、適宜、対応については、走りながら考えているという状況であります。

震災から一ヵ月半が経過したのに、あまりにも遅い対応ではないだろうか。こうした既存の法体系や規制を超えた対応こそ、政治主導で行うべきであろう。

一方でやったことといえば、場当たり的なパフォーマンスと会議の乱立、精神論的な空虚な言葉の乱発である。
権限や役割が不明確なまま節電啓発担当大臣や災害ボランティア担当の首相補佐官を任命し、「福島原発事故対策統合連絡本部」「緊急災害対策本部」「復興構想会議」など20もの対策本部・会議を乱立させた。
参考:佐藤正久オフィシャルページ
危機にあって会議を増やし、会議に出て仕事をしている気になるのは、ダメ会社の典型だ。

また原発に詳しいと自認する首相が、福島第一原発への対応を最優先と考え、震災翌日の原発視察を断行し、さまざまな指示を出したが、首相の任務は原発の専門家になることではない。同時多発的におこってしまった災害の全体像を把握し大きな方針を打ち出し、指揮命令系統を明確にして、担当者が仕事をしやすくすべきではないだろうか。

まとめると菅首相には、未曾有の大災害において、全体を俯瞰して問題を解決する意思と能力が欠けていたといえる。

2.自称市民運動家の限界
菅首相が自らの原点とする市民運動とは、既存の社会体制に対する異議申し立てをして、国家と対決する告発型の運動であるといえる。そこでは、環境保護や人権の尊重などがテーマとなり、一部の人々の利害や権利を代表する。国益や国全体としての利害調整などは考慮されず、全体に対して責任を負うことなく、「国に勝つ」ことに喝采が送られる。
そして、外部に対して情報を公開し、説明責任を果たすことも求められない。

菅氏の市民運動としての実績は、市川房枝氏の選挙活動を手伝ったこと以外にははっきりとしないのだが、かつての長崎県諫早湾干拓事業における行動には、市民運動家としての菅氏のありかたが見られるように思う。

「ムツゴロウがかわいそうだ」と自然環境保全の観点から諫早湾干拓事業に反対していたいた菅氏は、1997年4月、水門が閉められる時間に現地事務所を訪問し、テレビカメラの前で「誰の指示でやっているのか。責任者を出せ」と叫んだ。地道な反対運動ではなく、パフォーマンス重視の行動であったといえよう。

誤った政策があればそれを正し、責任を追及していくことは民主主義国家においては不可欠である。しかしそれは、あくまで国政を補完することであり、国政の代替機能にはならない。そして、菅氏の政治手腕の限界は、以下に見るように市民運動家の限界であるといえる。

1)リーダーシップのなさ
リーダーシップとは、端的にいうと決断力である。決断するためには大局的な方針が必要であり、首相としての決断には日本という国がどうあるべきかという国家観が問われることになる。しかし、市民運動家には国家観は必要ない。

2)外交不在
市民運動に国際感覚は必要ない(もっとも世界には、シーシェパードのように国を超えて活動をする団体もあるのだが、日本の市民運動ではこうした要素はないように思う)。
海水への放射線汚水放出に関して、周辺国から事前に情報提供がされていなかったと非難されたが、国としての対応について意識が欠けていたのではないだろうか。

3)責任不在、パフォーマンス重視
諫早湾干拓事業で水門が閉められる時間に現地を訪れても、事業を止められるはずがない。マスコミに取り上げられれば話題になり、自分の行動がアピールできるが、それは責任を伴わない。

4)情報開示と説明責任の意識の欠如
一部の権利の代弁者であれば、国民全体へはもちろん、他国に対しての情報開示も説明責任も意識する必要がない。

こうした思考・行動パターンがしみこんでいるのであれば、菅氏に首相としてのリーダーシップを期待することはできない。
市民運動家として国家に反対することを原点としてきた人には、国民の生命と人権を守る主体としての国家像がなく、首相の座におさまっても、何をすべきか分からないのだろう。



勿論、首相と四六時中一緒に居るわけではないので、本当のところ何をし、何を考え、何を想っているのかはわかりませんあが、残念ながら結果が全てであることから、結果論的に国民の支持を仰げない行動・言動が目に付けば、リーダーとしては失格といわれてもしかたがないかと。

ただ、肝心なのはそれを選ぶ人達を選んだのは紛れも無く国民であるという点。残念ながら、それは紛れもない事実です。ですから、国民一人一人が真面目に考えて、この難局を直視し、そして次にリーダーになるべき人をきちんと選んでくれる人達を、国民自ら選ばなければならないかと。あたりまえのことを書いてますが。

「カリフォルニアの教訓」と銘打って、行き過ぎた民主主義の危険性を書いた記事があります。

カリフォルニアの教訓 行き過ぎた民主主義の危険性
配信元:JBPRESS

カリフォルニアは世界中の有権者に警告を与えてくれている。

米カリフォルニア州はまたしても、予算に開いた大きな穴を抱え、それを埋める見込みがないまま会計年度の終わりに近づきつつある。州憲法では赤字予算が禁じられているにもかかわらずだ。

 ほかの州も経済の不振が原因で問題を抱えている。しかし、カリフォルニアは好景気の年でさえ、然るべき時期に予算を成立させられない。カリフォルニア州の信用格付けが20~30年程度で、50州の最上位クラスから最下位に転落した理由の1つがここにある。

 その多様性から、自然の美しさ、他の追随を許さないシリコンバレーやハリウッドの人材集団に至るまで、これほど恵まれた州の統治が、どうすればここまでひどい有様になるのだろうか?

 やはり、統治を行っている人を非難したくなる。非常に党派的で、普段から膠着状態にある議員は、かなり厄介な集団だ。1975~83年にも州を率いた経験がある現知事のジェリー・ブラウン氏は、(前任者たちと同様)行政機関を機能させるのに苦労している。


直接民主制の弊害

 しかし、別項の特集でも述べているように、最大の原因は直接民主制だ。カリフォルニア州の有権者が自ら選んだ議員を任期の半ばで解職するリコール、議会が採択した条例を拒否できる住民投票、そして中でも有権者が自ら規則を制定するイニシアティブといった制度だ。

 「提案13号」によって固定資産税の税率が引き下げられた1978年以降、教育から鶏舎の規制に至る様々なテーマで何百ものイニシアティブが条例として成立している。

 この市民議会とでも呼ぶべき存在が混乱を引き起こしている。イニシアティブの多くは、税額を抑えるか支出を命じるもので、予算を均衡化するのがさらに難しくなっている。

 一部のイニシアティブはあまりに杜撰で、意図に反する結果を招いている。提案13号は小さな政府という主張にもかかわらず、カリフォルニアの財政を中央集権化し、各自治体から州政府へとシフトさせる結果となった。

 住民投票にはエリートを抑え込む意図があったが、むしろ利益団体の道具と化している。ロビイストや過激主義者が資金を出して、困惑するほど複雑で、効果が曖昧な法律を成立させているのが現状だ。こうして、代議制の上に成り立つ州政府の力が衰えた。予算の70~90%の使い道が既に決まっている議会に誰が参加したいと思うだろうか?


彼らは楽園を舗装し、投票ブースを設けた

 これはカリフォルニア州にとって悲劇だったが、問題は州の境界をはるかに超えて重要な意味を持つ。米国の州の半数近く、さらには次第に多くの国で、何らかの形の直接民主制が採用されている。

 英国では5月、(投票制度の変更を巡り)何年もなかった国民投票が実施される。道を踏み外した下院議員をリコールする制度の創設も取り沙汰されている。欧州連合(EU)も超国家的な市民イニシアティブの手続きを導入したばかりだ。技術の発達で住民投票の実施が一層容易になり、欧米の有権者はかつてないほど政治家に腹を立てていることから、直接民主制が広がる可能性がある。

 それも、悪いことではないだろう。何しろ、成功モデルも存在する。スイスでは、直接民主制は地方レベルでは中世から、連邦レベルでは19世紀から採用されている。スイスでは直接民主制と代議制がうまく共存しているように見える。これはきっと単に、カリフォルニア州(明らかにスイスのモデルを借りた)が良いアイデアをうまく実行していないだけだろう?

 そうとは限らない。本誌(英エコノミスト)をはじめ、直接民主制を禁止したいと考えている者などほとんどいない。実際、住民投票が有効なケースもある。住民投票は議会の責任を問う1つの方法だ。

 カリフォルニア州でも最近、ゲリマンダリング(議員に都合の良い選挙区の改定)を制限する制度や政党によらない予備選挙がイニシアティブによって導入された。どちらも改善と言える。しかも、これらはリコールのプロセスを経て知事に選出されたアーノルド・シュワルツェネッガー氏が推し進めた対策だ。

 しかし、慎重に事を運ぶべき強い論拠がある。特に、市民が制定した法によって議会を通さずに済むようにする時には、気をつけなければならない。

 代議制と直接民主制の長所を巡る議論は古代にさかのぼる。多少単純化して言えば、古代ギリシャ人は純粋な民主制を好み(「国民による統治」。ただし実際は多くの場合、少数の執政者に最終決定権があった)、ローマ人は「公共のもの」として共和制を選んだ。共和制では、代表者が公益を勘案して妥協することができ、成果の総体に対する責任を負った。

 米国の建国の父、中でもジェームズ・マディスンとアレクサンダー・ハミルトンはローマ方式を支持した。マディスンとハミルトンは論文集「フェデラリスト」の中で、「パブリアス」という共通の匿名の下、群衆の危険な「情熱」や、「少数派」(すなわち利益団体)が民主的なプロセスを押さえる脅威について警告している。

 正しい民主主義は単なる果てしない投票の繰り返しではない。審理の仕組み、成熟した制度、合衆国憲法にあるようなチェック・アンド・バランスが必要だ。皮肉にも、カリフォルニア州が1世紀近く前に直接民主制を導入したのは、州政府が腐敗した場合の「安全弁」としてだった。このプロセスが機能しなくなってきたのは、比較的最近のことだ。

 提案13号を境に、直接民主制は安全弁であることをやめ、ほぼエンジンそのものへと変貌した。


失って初めて分かるもの

 これらは、希望と不安の両方を与えるものだ。希望は、カリフォルニア州にも自らを正せる可能性があるということだ。既に改革に向けた議論が始まっている。しかし皮肉なことに、州憲法改正会議への動きが2010年に資金不足で止まってしまったため、目下の最大の希望はイニシアティブを通じた改革にある。

 また、代議制の心臓である議会の権限と信頼性を取り戻そうという議論もある。これを実現するには、異常なほど少ない議席数を増やし、任期の制限を緩和することだ。

 さらに重要なのは、直接民主制をエンジンから安全弁に戻さなければならないということである。イニシアティブの実施はもっと難しくしなければならない。有権者が本当に理解できるよう、内容は短く、単純にすべきだ。どれくらいの資金が必要で、それをどこから調達するかを明示しなければならない。

 そして、イニシアティブが成立した場合も、議会がその内容を修正できるようにする必要がある。住民投票も同様の原則で行うとよいだろう。

 一方、不安要素は、欧米諸国が少しずつ反対の方向へと流れていっていることだ。グローバル化に対する懸念は、すなわち政府が嫌われ、ポピュリズムが台頭しているということを意味する。欧州の人々は、正気を失ったカリフォルニア州民が自らの投票によって異様な混乱を招いているのを見て陰で笑っているかもしれない。

 しかし欧州の有権者の中に、移民に反対する住民投票の誘惑に負けない人がどれくらいいるだろう? モスクの建設反対や減税はどうだろう? カリフォルニアの過ちはどこで繰り返されてもおかしくないのだ。



理系の私は、政治の仕組みそのものについて語る資格も技量もありませんが、今回の震災がそれぞれ各個において様々なことを考えるいい機会になればと想います。

そして、次にリスクの考え方について触れた記事をlogしつつ、電力の話に移ります。

決して許されない「想定外」という言い訳確率の低い災害が甚大な被害をもたらすという事実-長岡 貞男
配信元:JBPRESS

今回の大地震、津波、そして東電の福島原発の大災害は、リスク管理の重要性を我々によく認識させた。

 重要な点は、こうした巨大な地震や津波の可能性は従来知られていた点である。今回の地震はマグニチュード9と最終的に判定されたが、2004年のスマトラ沖地震は9.3であった。巨大津波の発生についても、産業技術総合研究所の活断層・地震研究センターが、869年の貞観津波など東北地方の仙台平野や石巻平野、そして福島県沿岸域の平野では約500年間隔で巨大津波が発生していることを事前に警告していた。

 それにもかかわらず、なぜ、リスクへの備えが不十分であったのか。


確率が低い事象は考慮しない方が合理的なのか?

 1つの重要な原因は、このような規模の地震・津波が来ることは数百年に1回であり、確率が小さいと認識されていたことであろう。

 滅多には起きない、確率が非常に小さい事象は考慮をしないことが、合理的な場合もある。それが合理的であるかどうかは、災害による被害の分布がどのようになっているかに依存する。

 巨大地震や津波が起きた場合、その被害が非常に大きいという特徴がある。よって、「滅多には起きない」という理由で「想定外」とすることは合理的ではない。

 地震の規模は「マグニチュード」で評価されるが、マグニチュードが1増えると地震の発生頻度はおよそ10分の1となることが知られている(2増えると100分の1)。したがって、マグニチュードが8級の地震は10年に1回程度日本で起きるとすると、マグニチュードが9級の地震は100年に1回であり、確率は大幅に小さくなる。

 しかし重要な点は、地震規模を示すマグニチュードは対数スケールであり、マグニチュードが1増えるとエネルギーは約32倍となる(2増えると32×32で1000倍にもなる)。被害は地震のエネルギーに対して比例的に大きくなると考えられるので、地震による被害(=確率×被害の程度)は、確率が低い巨大地震の被害に集中することになる。


滅多に起きないことへの対処を考えるべき場合

 大きな規模の事象は滅多に起きないが、それがインパクトの多くの部分を占めることは、事象の原因となる複数の要因が乗数的に結果に影響を及ぼす経済現象や自然現象に共通に見られる。例えば、発明の価値、油田の可採量、都市の人口規模等である。

 発明が経済的な価値をもたらすには、技術的な新規性、補完的な技術の利用の可能性、用途の広さ等の要因それぞれが必須であり、これらに関連した要因は、発明の価値にかけ算で作用する。

 全ての補完的な要因が大きくプラスであることは滅多にはない。しかし、そのまれな場合の価値は非常に大きくなる。この結果、上位10%の発明が発明全体の価値の8割以上を占めることが知られている。油田の場合も、上位から10%の油田が可採量の約7割を占めると言われている。

 このようなメカニズムを持っている事象は、事象の頻度とそのインパクトの関係がべき乗則、あるいは対数正規分布に従うことが知られている。こうした関係が成立する場合、確率が低い、滅多に起こらないということで対処を怠ってはいけない。

 地震・津波については、そのような滅多に起きないことが起きた場合にどのように対応するか、また、逆に研究開発の場合には、滅多に起きないようなブレークスルーの機会をいかに増やして実現していくかが重要なのである。


巨大津波への対策は明らかに不十分だった

 今回の福島原子力発電所の事故については、大津波に襲われた原子力発電所は他にもあるが、大事故に至っていないことが重要である。

 これには2つの要因があるようだ。

 1つは、設備や設置年が新しいかどうかである。福島第一原子力発電所と同じ場所にあったが、比較的新しい第6号機は、冷温停止した。また、東北電力の女川原子力発電所は敷地高が14メートルあり、設置場所の選択からして津波対策がなされていた。

 第2は、古い原子力発電所に追加措置がされていたかどうかである。日本原子力発電の東海第二発電所は古い設備であるが、非常用電源の浸水対策がなされており、冷温停止した(経済産業研究所の戒能一成氏の貴重な分析を参照)。

 福島第一原子力発電所の1号機は1971年3月の運転開始から約40年も経過している古い設備であり、低い敷地に設置されているが、大津波を考慮した浸水対策はされていない。

 事故直後の3月13日の会見で、東京電力の清水正孝社長は、「福島第一原子力発電所について「(今回の地震による)津波が大幅に想定を超えていた」と述べ、津波をかぶったことで非常用電源が故障したことが被災の最大の要因だったことを示唆した。非常用電源のモーターやポンプが海面に近いエリアにあり、ほぼ海水をかぶったため、非常用電源の機能を失ったという(日本経済新聞、2011年3月13日)。

 安全対策を練るのに、災害の規模を想定すること自体は問題ではないが、それが1つのシナリオに単純化されているところが大きな問題である。

 確率は小さくても巨大津波が発生し、そのことが大被害をもたらすことを考えれば、非常用電源を海面近くの施設の地下に置くことは、明らかに誤った選択であったはずだ。非常用電源だけでも、より防水度を高める工事を行うことには、それほど費用がかからなかったと考えられる。


「国が認可したから」という意識がもたらしたモラルハザード

 なぜ、このような結果になったのであろうか。

 今後の検証が重要であるが、「想定外」の津波には対処を考える必要がないという発想は、国の認可制度にも原因があるのではないか。

 つまり、「原子力発電所は全て国の基準に照らして国が認可をしており、また原子力損害賠償補償契約に関する法律によって、異常な巨大な天災地変には国が賠償責任を負う」とされていることが、1つの重要な原因だと考えられる。

 国が「安全」だと認可した以上は自分たちには責任はなく、それ以上の安全を追求する必要性がないというモラルハザードをもたらす危険性である。

 国が認可をするのは、原子力発電所は事故となれば大惨事になる危険性があるからこそであるが、それがあるために、ある種のモラルハザードをもたらしている面があるのではないか。

 規制行政は、安全かどうかの白黒の基準ではなく、最低限満たされるべき基準を示すべきである。同時に、事業者には、想定を上回る危険が生じた時にも被害を押さえることができる事前の投資を促すように、設計されるべきであろう。



リスクが一つのシナリオへ単純化されているという切なさ、国が安全と認可した=自分達に責任がない=それ以上の安全を追求する必要性がないというモラルハザード、という内容は、国の問題だけではなく、企業においても同じことが言えます。ですから、判断をする人、実施する人、それぞれがきちんと責任を持つことが重要・・・こんなの当たり前・・・で、且つ、自分の中で収拾出来ない大事であっても、それを乗り越えられる人が、それに見合った職務につくことが重要ですね。今更ながら「適材適所」と「組織の最適化」というシンプルワードが浮かんでくるところ辺り、情けない気がしています。

少しちがった観点のこういう記事もあります。
どこを見据えるか、によって、受け取り方も異なる内容だと自分は想っていますが、昨今の東電社員らしき人のつぶやき騒動の様に、局部的か、それとも全体を見たときにどうするか、ということにおいては、先ずは議論の土台をあわせないと一生かみ合わないまま進んでしまう気がします。

ジャーナリスト・東谷暁 東電叩きによる「人災」
配信元:産経ニュース

 もういいかげんに「東電叩(たた)き」をやめてはどうか。たしかに、今回の福島第1原発事故については東京電力にも責任があるだろう。しかし、そのことといま蔓延(まんえん)している陰湿な東電叩きとはほとんど関係がない。

 まず、東電の「想定外」発言を批判して何から何まで「人災」だと言うのは、恐怖に煽(あお)られた短絡にすぎない。この世の危険には確率計算できるリスクと、計算できない不確実性があって、リスクについて東電はかなりの程度まで想定していた。

 最終的に今回の事故の原因となった非常用ディーゼル発電機不起動の確率は1000分の1だったが、東電はこれを2台並列に設置して100万分の1の確率にまで低下させていた。しかも、非常用ディーゼル発電機は頑丈で津波にも拘(かか)わらず一旦は起動したが、この非常用ディーゼル発電機のサブ冷却系が津波にやられていたためオーバーヒートして途中で停(と)まったとの説は有力である。

 なかには、巨大な津波が来ることは分かっていたのに、低い防潮堤しかなかったため事故が起こったのだから、東電が対策を怠ったことになるという人もいる。しかし、これまで14メートルを超えるような津波は三陸海岸のものであって、福島浜通りに来たという記録はない。また、最近おずおずと発言を始めた地震予知学者たちも、口を揃(そろ)えてマグニチュード9は想定していなかったという。それでどうして東電がマグニチュード9によって起こる巨大津波を想定できるのだろうか。 そもそも、たとえ東電が巨大津波を想定していたとしても、できる対策とできない対策がある。もし想定できることはすべて予防策の対象とすべきなら、岩手、宮城、福島3県の海岸に、巨大防潮堤を建設しなかった県および政府は、あれほど多くの被災者を、最初から見捨てていたことになるのではないのか。

 私が東電叩きをやめろというのは、それが私たちにとって損だからでもある。東電叩きには、東電に責任があるから政府は援助をするなとか、東電を解体しろという主張すらある。しかし、これこそ、私たちに新たなリスクを負わせることになるだろう。

 これまでも高度な技術をもった事業体を解体したさいには、巨大なリスクが生まれた。国鉄解体では組織内の技術が守られたかに見えたが、JR西日本では制御技術と技術者集団の継承性が損なわれて、福知山線事故という悲劇を生み出した。

 また、JALについてはいま給与体系や親方日の丸体質ばかりが論じられるが、最終的に利用者の信用を失ったのは多発した事故だった。この場合も、半官半民から完全な民間企業への変身が強調されるあまり、整備という航空業のコアを外注してしまうことで、組織内に蓄積された安全技術が流出したからである。

 原発という技術は、現代における最先端の技術の塊のようなものであり、ことに安全を確保するための制御技術は、設計者と使用者との間の連携が失われれば機能が低下してしまう。しかも、制御技術は組織そのものによって維持されている。これを東電叩きに乗じた怪しげな扇動によって解体してしまえば、新たな事故を招来しないともかぎらない。そうなってしまえば、今度こそ、東電叩きによる「人災」ということになるだろう。(ひがしたに さとし)



想定できなかったこと、想定できたけど費用対効果でやらなかったこと、責任を追及すること、責任追及よりも先ず実を取ること、全体像としてどうするかということ、局部的にコントロールできない人をどうするかということ、その辺が入り乱れて議論に突入すると訳がわからなくなりますね・・・

次に今回の対応を「作戦行動的見地」から綴った記事があり、非常に良い内容でlogしました。
まさにリスクヘッジとか、結果論的にこうだった、ではなく、作戦は常に事前に準備され、速やかに遂行され、そしてフィードバックされてブラッシュアップされる。PDCAがまわっていて、それが大きな戦略レベルから戦術、戦闘とそれぞれが意識的・無意識的に相関しつつ遂行されていく。戦略の上位には政策があるはずなのですが・・・

「作戦」の観点から見た「東日本大震災」への対応 菅 博敏
配信元:JBPRESS

2011年3月11日14時46分、500年に1度とも言われる巨大地震が東北・関東地域を襲った。「東日本大震災」の発災である。その直後、20メートルとも30メートルとも言われる大津波が太平洋沿岸を襲い、3万人に近い尊い人命と家屋・港湾・田畑等を跡形もなく破壊したのである。

 今回の地震は時間の経過とともに、その影響の大きさを痛感させられる。それは今までに経験したことのない複合災害だからである。
 第1に、マグニチュード9(M9)というエネルギーを持った地震、第2に想像を超えた津波、第3に福島第一原子力発電所の事故、第4に青森から茨城に至る広域、さらに追加するとすれば地方自治体そのものが大きな被害を受けて機能不全に陥ったことである。
 さらに政治体制について見てみると、平成7(1995)年の阪神・淡路大震災の時は村山富市政権であり、今回は青息吐息の菅直人政権の時である。日本最大の国難の時に弱体政権とは、日本国民にとって真に国難である。
 今回の地震から色々な教訓を得ることができる。第1に政府・地方自治体・企業等の危機管理体制の欠如である。危機とは、自然災害・人為災害等の災害、60年安保・70年安保改定の時のような治安、そして最大のものは国家防衛と極めて範囲が広い。
 危機への対応は、まず危機的な状況を作らないことであり、未然に防止できるようにあらゆる手段を駆使するとともに、保険がかけられるものはかけておくことが重要である。
 次に最悪な事態を想定して対策を確立しておくことである。最後に危機が生起した場合は迅速・的確に対処し、被害の拡大を阻止(初動対処が重要)することである。第2は福島第一原発事故発生後の「対応のまずさ」である。
 危機管理については別の機会に委ねることとし、本稿においては軍事行動における「作戦」の観点から特に初動対処は良かったのか、指揮官の位置は如何にあるべきか、緊急事態における組織はいかにあるべきか、指揮官の決心とは、原発事故対応作戦は主動的に行われたのか、について考察することにする。

1. 初動対処は良かったのか
 1995年に起きた阪神・淡路大震災の時は、自衛隊の初動対処が悪いとマスコミから随分報道された。実際のところ、自治体との平素からの連携不十分、要請の遅れ、部隊の進出経路の渋滞などから少し遅延したことは事実のようであるが、初動が極端に遅れたということはない。
 そしてこの震災を契機に、教訓を生かして改革が行われたのである。法体系の整備については、派遣要請の手続きを簡素化し、市町村長にも要請の権限を追加、さらには災害派遣中の自衛官に対し、活動の円滑化を図るため新たな権限が付与された。自衛隊の運用の一元化については、それまでの大臣の指揮は陸・海・空各幕僚長を通じて行い、大臣の命令は各幕僚長が執行することになっていたが、改革により統合幕僚長が一元的に大臣を補佐し命令を執行することにした。このことにより省としての迅速な意思決定、総合的・効果的な部隊運用が可能となったのである。自衛隊の初動態勢については、陸上自衛隊は、常時全国規模で人員約2700人、車両410両、航空機28機の態勢を、海上自衛隊は、各地方総監部に艦艇1隻が2時間を基準に、哨戒機が昼間は15分から1時間、夜間は1~2時間を基準に待機する態勢を、航空自衛隊は、各航空基地において輸送機や救難機が昼間は15分~1時間、夜間は2時間を基準に待機する態勢を確立した。各地方自治体においても、防災計画の策定、防災訓練の実施、自衛隊との連携の強化などのため、現在では100を超える自治体が自衛隊退職者を防災管理官として採用している。それでは東日本大震災における初動対処はうまくいったのであろうか?
 地震・津波被害に対する人命救助については、極めて迅速・的確に行動できたものと考えられる。発災は3月11日14時46分、防衛省災害対策本部の設置は14時50分、岩手県知事の派遣要請は14時52分、最も遅い福島県知事の要請でも16時47分である。自衛隊は発災直後からヘリや車による情報収集を行い、自主的に派遣の準備にとりかかっていた。18時00分に大規模震災災害派遣命令が下達され出動、14日の時点では陸上自衛隊3万6000人、海・空自衛隊3万人、ヘリ96機、艦艇58隻という大規模部隊が東北・関東地区に展開したのである。4月18日時点における人命救助が1万4937人に及んでいることから判断しても、初動の活躍ぶりを窺うことができる。

 一方、福島原発事故への初動対処はどうであったのか。未経験のこととはいえ失敗したとしか言いようがない。

 第1に、水素爆発の1つの原因と言われているベントに関する混乱と遅れである。枝野幸男官房長官は、3月12日午前1時30分に東電に対し1号機のベントを指示したと、のちの会見で述べているが、午前2時20分時点における原子力安全・保安院の会見ではベントは考えていないと述べている。さらに福島原発の現場では1号機なのか2号機なのか混乱したうえ、ベントの作業を開始したのは視察に訪れていた菅首相が現場を離れた10時17分以降である。その結果、15時36分、1号機は水素爆発を起こしたのである。

 第2に、1号機原子炉内への海水注入の遅れである。18時00分には政府から海水注入の指示が出ているにもかかわらず、東電はあくまでも真水の注入にこだわり、海水の注入に踏み切ったのは20時20分以降である。その結果、燃料棒の溶融を加速させてしまったのである。

 第3には、電源車に関するトラブルである。23時25分の原子力安全・保安院の会見によれば、電源車さえ到着すれば冷却システムは回復するものと考えていたようである。しかしその後電源車は到着したものの、電源の不一致やケーブルの欠損等で十分に対応することができなかったのである。その後も対応は後手後手に回り、第3号機の水素爆発、プールの燃料棒の損傷、汚染水の流出等を招き、初動対処に失敗したと言わざるを得ない。


2. 指揮官の位置はいかにあるべきか

 作戦における指揮官の位置は重要である。指揮官といっても部隊の大小・役割により、さらに状況の変化に応じてその位置は異なってくる。一言で言えば、状況に照らして最も指揮容易な位置でなければならない。本震災発災以降における菅首相の位置は適切であったのか?
 12日早朝首相は、自衛隊のヘリで太平洋岸の被害状況を上空から視察するとともに、福島原発に立ち寄りその状況を確認した。この行動については賛否両論がある。最も重要な時に官邸を留守にすることの評価の違いである。筆者は、総指揮官が自分の目で現場の状況を確認することは極めて重要であると思う。しかしそれはあくまでも状況の確認であるべきであり、現場における陣頭指揮であってはならない。現場は現地指揮官に任せ首相が考えることは、まずは国力を結集して人命救助と被災者の生活支援をいかに行うか、そして原発事故の早期収束である。
 報道によれば、福島原発の現場や東電と政府との統合対策本部において、声を荒げて詰め寄る場面があったようである。「深沈厚重」という言葉があるが、指揮官の究極の品格とされている。どんな状況にあっても、深い水の中にどっしりと沈んでいる石のように泰然自若として真に頼りになる人物のことである。菅首相の言動を見るにつけ、一国の宰相としての力量に寂しさを感じざるを得ない。

3. 緊急事態における組織はいかにあるべきか

 政府は発災直後から本部・会議を乱立し、挙句の果てに学者ばかりの内閣官房参与を15人も採用、国民に震災に対する積極的な姿勢を見せつけたが、結節が増えただけである。原発事故における指揮(対応)も極めて不明瞭である。官房長官、原子力安全・保安院、東電の指揮関係や業務の役割分担は一体どのようになっているのか、会見を聞いても統一性に欠けバラバラである。
 さらに言えば、災害対策本部と東電との統合対策本部の関係、経産省の原子力安全・保安院と内閣府の原子力安全委員会との関係等、組織が有機的に機能しているとは到底考えられない。国家の緊急事態の時こそ、災害対策本部長である首相が一元指揮可能なシンプルな組織が必要である。今回の場合、中央組織としては官邸にある大規模災害対策本部の中を地震津波対策本部と福島原発対策本部の2つに大別して、その下に各省庁横断の連絡協議会を設置し、具体的な調整・審議はその場で行えばいい。東電はその組織の中に取り込み、必要があれば地方自治体の代表を加えればこと足りる。既存の行政組織をフルに活用すべきである。


4. 指揮官の決心とは
 指揮官の最大の仕事は決心であり、決心は指揮官固有の権限でもある。また指揮官は孤独であると言われているが、それは決心をしてその結果に責任を伴うからである。指揮官の代役はいないのである。決心で一番難しいことは、「いつ」「何を」決めるかということである。決めなくてもよいものを早めに決めてしまったり、逆に決めなければいけないものをいつまでも決めなかったりすることは、厳に戒めなければならない。指揮官にはタイムリーな決心が求められているのである。
 それでは、福島原発事故における「廃炉」に関する決心は適切であったのか。ベントの実施や原子炉内への海水の注入等に関する決心は当然あったものと思うが、最大の決心はいつの時点でどのような状況になった時に「廃炉」を決心するかである。結果論とのご批判を覚悟の上あえて申し上げれば、「廃炉」の決心の遅れは致命的であると言わざるを得ない。東電がその決心をして公表したのは3月31日になってからである。もう少し早く決心し対策を講じれば、現在のような最悪な事態を回避できたのではないか、残念でならない。「廃炉」の決心時期としては、津波に襲われ施設が5メートル水没した事故当初の時点、次に1号機に海水を注入した時点等が考えられるが、その適否については改めて検証すべきものと考える。


5. 原発事故対応は主動的に行われたのか
 作戦において最も戒めるべき作戦は、何の理念も目的もないその場しのぎの作戦、生起する事象に対処するだけの作戦、敵の行動に追随するだけの作戦であり、このような作戦を「状況戦術」と言う。作戦に当たっては、まず作戦目的、作戦目標を確立し、それを達成するための道筋を細部にわたり計画して、終始主動的に行動しなければならない。
 事故発生以降、どのようにして収束させるのか、その計画すらなく、その場しのぎのいわゆる「状況戦術」に陥ったのである。さらに、3月31日「廃炉」を決心したにもかかわらず、工程表が提示されたのは4月17日になってからである。
 しかもその工程表は極めて大まかなものであり、細部の計画は策定されているのか疑問を持たざるを得ない。
 原発事故の影響の大きさを考える時、1日も早い収束を期待したい。


おわりに
 東日本大震災について「想定外」という言い訳をよく耳にする。想定外のことを想定して万全を期することが危機管理であるが、この言葉は災害には通用しても「国家防衛」には通用しない。国が潰れてしまうからである。
 そんなことは起こるはずがない、と思っていた事が今回起こったのである。予算枠ありきで、その枠の中に見合った想定を設定することは防衛に関しては許されないのである。
 近年、防衛費は任務の拡大とは裏腹に減少の一途を辿っているが、今回の大震災の危機管理を良き教訓にして、去年策定された「防衛大綱」を根本から見直すことが急務である。
 また陸上自衛隊の役割は、国家防衛、災害派遣を問わず国民の生命・財産を守る最後の砦であり、人的戦闘力においてもその重要性が再認識されたのである。
 日本は元寇・ペリー来航・日露戦争・敗戦という4大国難を、卓越した国家観・歴史観、和の精神、武士道精神をもって見事に克服してきた。戦後最大の国難とも言うべき今回の震災も、日本人の底力で必ず乗り切れるものと確信する。

 最後に、不幸にして命を落とされた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、被災地の早期復興と福島原発の早期収束を重ねて願うものである。



迫力のある内容。有事とは何も国家レベルの話だけではありません。こういう記事に触れられるのも、不謹慎ながら今回の震災が機会となっていることも事実です。

さて、電力についてでしたが、少し話題がそれましたので戻します。
客観的データに基づいた下記の様な記事があります。

原子力で命を守りたい
配信元:金融日記

火力や水力と比べて原子力ははるかに人命の犠牲が少ない発電方法で、そのことはエネルギー政策担当者の間では常識なんですけど、知らない人が意外と多いようなので今日は各発電方法でどれぐらいの人が死ぬのかを簡単に計算したいと思います。実は原子力は、風力やソーラーよりも死ななければいけない人の数が少ないんです。

その前に、世界のエネルギー源の内訳を見てみましょう。IEA(International Energy Agency)によると、全世界で1年間で消費されるエネルギーは約14万テラ・ワット・アワー(TWh)です。その内、化石燃料は11万TWhを超えて、84%を占めます。石油がトップで全エネルギー消費の35%にもなります。なるほど世界は石油の利権を争って戦争までするわけです。原子力は現在のところ約6%です。

さて、それぞれのエネルギー源がどれぐらいの犠牲者の上に成り立っているのか計算してみましょう。石炭などは採掘でおびただしい数の人が死にます。たとえば、中国では毎年数千人が石炭の採掘で死ぬようです。メキシコ湾の石油流出事故を見ても、石油もかなり危険なことがわかります。当然ですが、天然ガスの採掘作業も危険です。また石油をめぐる戦争でもたくさんの人が死にます。しかし、驚くことかもしれませんが、以上のような犠牲者の数は計算しなくてもいいんです。なぜかというと、大気汚染で世界中で300万人以上の人が毎年死ぬからです。そして大気汚染のほとんどは化石燃料を燃やすことによって起こります。中国の炭鉱夫の数千人や、戦争で死ぬ人は、大気汚染での死者数に比べれば無視できるほど小さい数だからです。

ざっくりと化石燃料を1TWh使うと何人死ぬのか計算してみましょう。300万人を11.6万TWhで割ると、約25人になります。化石燃料でも、石炭が圧倒的に危険で、次いで石油、そして一番安全なのが天然ガスなのですが、ここではひと括りに化石燃料としておきましょう。石炭は危険ですが、もっとも安価なエネルギー源でもあるので、世界の発電所で広く使われています。

石油産業や自動車産業は非常に強い政治力を持っているので、あまり大気汚染のことがマスコミ等で語られることはありませんが、健康被害の明確な科学的証拠がほとんどない低放射線と違い、大気汚染の人体への影響は明確です。たとえば中国では石炭火力で80%ほど発電していて、毎年50万人ほどが亡くなるといわれています。また石炭というのは放射性物質をかなり出します。福島原発の事故のあと、外資系金融業界では多くの従業員が香港オフィスに一時退避しましたが、原発事故の後に上昇した東京の大気放射線量は毎時0.07マイクロ・シーベルトですが、香港は普段から毎時0.14マイクロ・シーベルトです。これは中国大陸の石炭火力発電所の影響だといわれています。

下の図(略)は、大気汚染の研究で非常に有名になった論文のグラフですが、化石燃料を燃やしてできる二酸化硫黄の濃度と死者数が非常にきれいに相関しています。この論文が書かれた当時は、大気汚染によってロンドンでは数千人が毎月死亡していたようです。日本でも四日市ぜんそくなどは有名ですね。そして大事なことは、そういった有名な公害だけでなく、今でも多くの方が毎年亡くなっているということです。

次に原子力の死亡者数を考えてみましょう。過去の原子力発電の事故で多数の死者が出たのはチェルノブイリだけです。福島原発の事故でも統計的には多少の人が将来癌で亡くなるかもしれません。東海村の臨界事故など世界の核燃料施設で死者がポツポツ出ていますが、これらは数が少なすぎて今回の計算では無視できるほど小さいでしょう。チェルノブイリ原発事故では、当時WHOとIAEAの調査で将来4000人ほどの人が癌で亡くなるだろうと予想されました。しかし20年後のWHOの再調査では「それよりはるかに少ない人しか死ななかった」と報告しています。

また、ウランの採掘でどれだけたくさんの人が死ぬのか見積もらなければいけません。ウランというのは石炭などの採掘と違って、人が掘らずにISL法といってポンプで汲み上げるだけなので、ほとんど人が死にません。また核燃料は石炭などの化学的な燃料と違ってエネルギー密度が桁外れなので、そもそも掘り出す量が石炭の200分の1程度ですみます。よってウランの採掘の死者数というのは非常に少ないです。

石炭の採掘では毎年1万人ぐらい死ぬといわれているので、ここはウンと多めに見積もって、ウランの採掘でも被曝による癌などの影響で毎年100人ぐらい死ぬとしましょう。チェルノブイリもウンと多めに見積もって1万人ぐらい死んだとしましょう。原発の歴史はすでに50年ぐらいあるので、1年間に直すと200人ぐらいです。すると原子力は採掘と事故で毎年約300人の人が死ぬことになります。これを1TWh当たりにすると、300人÷8,300TWh=0.04人になります。これは相当に多めに見積もった数字です。

石油も石炭も天然ガスも、もちろんプラントの事故によって亡くなる方もいるのですが、原子力のように計算に含めませんでした。なぜ含めなかったかというと、大気汚染の被害者が多すぎるので、プラント事故や採掘作業の事故による死者数は計算上は無視できるほど小さくなるからです。ところが原子力は、事故が起こらなければ死者がでないので、事故の死者数や採掘による死者数を注意深く見積もる必要があるのです。

水力や風力や、いま注目を集めているソーラーはどうでしょうか。水力は工事も危険ですが、決壊事故で時に膨大な数の人がなくなります。1975年の板橋・石漫灘ダム決壊では17万人ほどの人が犠牲になりました。エネルギー関連の事故の死者数のランキングでは、ダムの事故が上位を独占しています。家の近くに発電所が建設されるとしたら、原発よりダムの方に反対したほうがいいかと思います。

風力やソーラーはかなり優秀です。風力発電は事故での死者数はほぼゼロと考えていいでしょう。しかし鉄とコンクリートを使うので、これらの材料を生産するための犠牲者を考えないといけません。原発も、鉄やコンクリートを使うし工事でも事故があると思いますが、エネルギー密度が風力に比べて桁外れに高いので、1TWh発電するのに必要な工事の数が桁外れに少なく、工事に伴う死者数は原発では無視できるほど小さくなるのです。また、原発の工事の死者数はチェルノブイリの犠牲者の数に比べて計算上無視できるほど小さいと考えても大丈夫でしょう。

ソーラーは風力よりやや危険です。というのも屋根に取り付ける時に転落事故が起こるからです。工事現場での死因の1位が転落事故です。ソーラーの死者数は転落事故の発生頻度から推計できます。ソーラーの材料のシリコンは採掘に危険が伴わないので、この分はゼロと考えても大丈夫でしょう。ちなみに全エネルギーのうち、風力の占める割合は1%程度で、ソーラーの占める割合は0.1%未満です。

以上のようなことを計算している研究者の方がいて、ここではそれらの数字を使いましょう。風力は約0.15人/TWh、ソーラーは約0.5人/TWh程度です。

(グラフ略)こうやって見ると、原子力は化石燃料に比べて圧倒的に犠牲者数が少ないですね。僕自身は、割とナイーブに人の命は何よりも重いと考えています。飛行機も電車も、確かに動かせば人が死にますが、僕はそれは正当化できると思います。なぜならば飛行機や電車による経済的な発展により救われる命は、事故の犠牲者の数に比べてはるかに多いと思うからです。ひとり当たりのGDPと平均寿命には強い正の相関があります。テロリストと交渉しないというのも理解できます。テロリストの要求を呑んで、その場で人質が解放されたとしても、それでテロリストが増長すればさらに多くの人が犠牲になると思うからです。個人的には、自動車ぐらいになってくると、交通事故や大気汚染による死亡者数の多さが、経済的な便益を上回ってくるように感じています。だから自家用車は禁止した方がいいと思っています。人の命の観点から、僕自身は原子力はかなり理想的なエネルギーだと思っています。そして化石燃料は最悪だと思っています。

実は、今までの計算では、CO2の排出による将来の気候変動のリスクが全く考慮されていません。長期的に見たときの化石燃料の危険さは、これまでの計算をはるかに上回る可能性があるのです。

しかし世の中には人の命を軽んじる方が割とたくさんいます。たとえば東日本大震災で多くの発電所が被災してしまっため、このままではこの夏の電力供給が足りません。そうすると熱中症や、病院での停電などでかなり多くの方が死亡してしまうことが予想できます。実際に、3月の計画停電では、自家発電機による一酸化炭素中毒で数人の方が亡くなりました。ところが反核運動家の方々は、柏崎の定期点検中の原発の再稼働に執拗に反対しているようです。なるほど確かに熱中症で亡くなる方は老人のような弱い方が多いので、社会保障費が膨れ上がっている日本の財政を立て直すには経済的な合理性もあります。反核運動家の方はそこを狙っているのでしょう。

また風力やソーラーは、過去20年間ほどあれだけ世界中から莫大な補助金が注がれたにも関わらず、現在世界のエネルギー供給の1%ほどしかありません。風力やソーラーというのは、いわば補助金ビジネスなので、福島原発の事故に乗じて原発の再稼働を阻止すれば、より多くの補助金が引き出せるかもしれません。国が配れる補助金の総額は一定なので、風力やソーラーに回る補助金は、他の分野のお金が削られているのです。原発の再稼働ができなければ、増えるのは風力やソーラーではありません。増えるのは化石燃料の消費です。つまりもっと人が死ぬのです。

僕は、風力やソーラーのような再生可能エネルギーの研究開発や個人での投資は大いにやればいいと思っています。しかしより多くの補助金を引き出すために、原発を止めて、結果的に多くの人を殺すことには賛成しかねます。確かにビジネスは非情です。僕には想像もつかないことですが、政治と深く関わる石油産業や通信産業のような巨額の利権が動く世界では、それが合法的なら―時には非合法でも―多くの人が死ぬようなこともやらないといけないのかもしれません。それぐらいの冷酷さがないと、このような業界では偉くなれないのかもしれませんね。人間とは業の深い生き物です。



ツイッターでもフォローさせて頂いており、いつもツイートを拝見させて頂いています。コメント欄が辛辣ですね・・・表現方法にもよるところがあるのだと思いますが、客観的な数字で議論するとこうなるとうことは事実としてあります。ただしその数字自体がもしかしたら著者の知らない別の事実がある場合もあるでしょうし、そのときはそれを修正していけばいい。メジャーマスメディアではないのですから。また重要な点として、感情論は別での議論にしないといけませんね。定性的な部分と定量的な部分とは必ずしも一致しませんし。
数字は数字。操作できるといっても、それは見せ方の問題で、少なくとも切り取った断面は真ですから、やはり議論の土台をあわせないとかみ合わないまま進みます。こういう考え方もあるということを事実として認めつつ、反論があるならデータで示し、少しづつでも土台をあわせていくことが必要だと痛感する、非常に難易度の高い議題です・・

原発に関しては、JBPRESSで英フィナンシャルタイムズ紙の記事を取り上げています。

社説:今こそ原子力の時代を復活させるべきだ
配信元:JBPRESS


前略

原子力がない世界は安全か?

 実際のところ、原子力のない世界は安全性が低くなる。

 原子力は現在、世界の発電量の14%を占めており、これを化石燃料や再生可能エネルギーで代替することは当面できない。強行すれば、エネルギー市場が深刻な不安定性や不足に見舞われる恐れがある。要するに、エネルギー安全保障には原子力を含む多様なエネルギー源が必要なのだ。

 こと安全性については、原子力は別の基準で判断することが避けられない。広島への原爆投下で原子力の時代が始まって以来、人々は核分裂の破壊的な威力と、姿も見せず音も立てずに忍び寄ってくる放射能汚染の危険性の両方を懸念してきた。

 しかし、原子力の時代が始まってからの原子力エネルギーによる死傷者数(鉱石の採掘や燃料精製の現場での事故から、発電所からの放射能汚染によるものまでを含めた数)は、石炭や石油、天然ガスの燃焼による犠牲者数よりケタ違いに少ない。炭素燃料がもたらす気候変動という、論争の的になっている2次的影響を無視した場合でもそうなのだ。

 政治家は、原子力に対する国民の不安を尊重しなければならない。チェルノブイリがもたらした長期的な放射性降下物には、恐ろしいものがある。現地から2000キロ離れた英国の一部地域では今も、農家が自由にヒツジを移動させられない。

 そして悲しいかな、福島第一原発の数キロ圏内に住む人々は、今後何年も普通の生活に戻れないかもしれない。

 このため、世界各国の政府が福島の事故に対応し、原発増設計画を一時停止し、既存の原子炉の安全性を点検することにしたのは正しかった。

 ただし、巨大地震と津波という特殊な状況が欧州北部に当てはまる可能性が低いことを考えると、原発7基の一時停止を命じたドイツは行き過ぎだった。

 こうした点検は、形ばかりのジェスチャーではなく、福島で起きたことを踏まえて本当に安全性を評価する試みでなければならないが、それと同じくらい重要なのは、政治家たちがエネルギー政策について難しいが不可欠な判断を下すのを避けられるよう点検を不必要に長引かせることがあってはならない、ということだ。

 現在の原子力の嘆かわしい特徴は、大半の発電設備が古いことだ。これは1979年のスリーマイル島の事故に続くチェルノブイリの事故で、新規の承認と建設が何年も凍結されたためだ。世界の原発の大多数は、20世紀半ばの防衛産業で生まれた設計に基づき20年以上前に建設されたものだ。

 アレバの欧州加圧水型炉(EPR)やウェスティングハウスの軽水炉AP1000などの今の「第3世代」の設計は、受動冷却システムなどの安全装置を備えている。こうした装置があれば、津波の後に福島第一原発を破壊した深刻な過熱をほぼ確実に防げたはずだ。

福島の事故で原子力開発を凍結させてはならない

 しかし、こうした設計は完璧とはほど遠く、将来、より優れた原子炉(例えば、ウラン燃料ではなくトリウム燃料を使う原子炉や、地下深部で稼働する原子炉など)を開発するためにはもっと研究が必要だ。

 そして、言うまでもなく、原子炉の安全性以外にも対処すべき問題がある。特に大事なのは、放射性廃棄物の長期的な貯蔵や処分だ。

 チェルノブイリは過去四半世紀にわたって原子力の開発を凍結させた。もし福島が今後25年間にわたって、これと同じくらい効果的に原子力の開発を凍結させるようなら、世界にひどい遺産を残したことになる。

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また、原子力の時代は終わった・・・原発への信頼が失われ、新規原発建設は無理、代替エネルギーを探さねばという内容とのことですが・・・

原子力の時代は終わった - 『日本復興計画』 池田 信夫
配信元:アゴラ


前略

著者は日立の原子力技術者だったので、その工学的な構造についてのコメントは的確だ。今回の事故は原発の危険性を証明したように見えるが、仔細に見ると逆である。原発事故でもっとも恐いのは、チェルノブイリのように核燃料が暴走して原子炉が破壊される事態だが、40年以上たって老朽化した福島第一でも、運転は正常に止まった。

ECCS(緊急炉心冷却装置)が止まるところまでは想定内だったが、予備電源がすべて津波をかぶってだめになり、さらに電源車の電圧が違う(福島第一はGE製で440V)ために使えなかった。これは福島第二のように予備電源を原子炉建屋に入れておけば防げた単純な設計ミスであり、原発一般の問題とはわけて考えるべきだ。

地震と津波と原発という3つの条件が重なるのは、日本以外では(断層近くの海岸に立地している)カリフォルニアのサンオノフレ原発しかないという。今回の事故は、およそ考えられる最悪の偶然が重なったので、これ以上の事故が世界の他の場所で起こることは考えられない。しかも放射線の被曝による死傷者は出ていない。事故調査委員会が原因を分析して世界に発表すれば、誤解は解けるだろう。

しかし著者は、日本では「原子力の時代は終わった」という。東電のお粗末な危機管理で、原発への信頼が失われてしまったからだ。今後しばらく原発の新規立地は不可能であり、数兆円にのぼる損害賠償のリスクを民間企業が負うのも無理だ。原発の穴を化石燃料などで埋めることは容易ではなく、コスト上昇は避けられない。スマート・グリッドなどの新技術によって、徹底したエネルギー節約を行なうしかない。

後略



最後に「世界と日本のエネルギー事情のリンク」、
そして「脱」とか「推進」の二元論ではない、という記事をlogします。

世界と日本のエネルギー事情

電気は使いやすいエネルギーとして、毎年着実にその消費量 は伸びています。電力のエネルギー源をどう確保してまかなっていくかは、日本だけでなくどこの国にとっても重要な課題です。石炭火力、石油火力、ガス火力、原子力、水力、風力、太陽光…など、電力を得るにはさまざまな方法がありますが、各国の資源の有無、自然条件、経済やエネルギー政策など、それぞれのお国事情が反映されています。 → 続きは上記リンクから



「脱原発」vs「原発推進」の二元論を超えた東電問題の日本のためになる議論の仕方
配信元:ダイヤモンドオンライン

 福島第一原発事故の損害賠償(補償)のための政府の支援策(新機構の設立)は、連休前に閣議決定される予定でしたが、政府内での調整がつかず連休明けまで延期となったようです。それ自体は良かったですが、しかしやはり東京電力をめぐる議論はどうも偏っているとしか思えません。

東電を甘やかすな

 偏っていると思う第一のポイントは、政府の支援策は東電を甘やかしているということです。

 先週このコーナーでも書いたように、民間企業が事故を起こしたのだし、原子力損害賠償法も、原発事故が原因で発生した損害の賠償の責任を無限責任として電力会社に課しているのですから、東電が一義的に責任を負うことは当然です。この点については枝野官房長官も海江田経産大臣も明言しています。

 となると、東電がまずすべきは、徹底的なリストラを通じて損害賠償の原資を自らで捻出する努力をすることではないでしょうか。

 ところが、発表されたリストラ策は、役員の年間報酬の50%削減、社員の給与の2割削減、新規採用の見送りなど、JALのリストラよりよっぽど甘い内容でした。被害の規模を考えれば、例えば役員報酬は全額返納が当然です。幸い、海江田経産大臣が今のリストラ策では不十分と発言しましたので、ある程度の深堀りは行なわれるでしょうが、それだけで十分でしょうか。

 例えば、東電の2010年3月時点での総資産を見ると、資本剰余金と利益剰余金で約2兆5千億円もの内部留保があります。原子力事業のための引当金も約1兆8千億円あり、経産大臣の許可を得れば賠償に転用が可能となります。

 そうした東電の自助努力が不十分な中で救済策が決定・実行されたら、いくら「東電が無限の責任を負う」「国費負担はない」と関係者が喧伝しても、結局は電力料金の値上げという形で国民が多くを負担することになります。

 ついでに言えば、政府内には莫大な“原子力埋蔵金”(原子力関連の団体の積立金と予算)もあり、本来はこれらも損害賠償の原資として活用すべきです。そうした努力もせず、なんでもツケは国民に回そうという安易な発想は、政府のムダを十分に切らない中で増税して復興財源を賄おうというのとまったく同じです。


今の電力供給体制ありきの議論はおかしい

 もう一つ偏っていると思うのは、関係者の議論や発言を聞いていて、東北の復旧・復興に関する議論では“単に震災前の姿を再現するのではなく、ゼロから新しい理想の東北の姿を描くべき”といった趣旨の正論がよく聞かれますが、将来の電力供給に関しては、基本的には震災前の姿の延長、これまでの電力供給体制の継続が暗黙の前提になっているということです。

 ちなみに、日本の電力供給体制の特徴は、一社による発送電一体型での地域独占と、東日本と西日本で異なる周波数です。大口需要家に対しては多少の規制緩和が行なわれ、西日本と東日本の間では多少の電力融通が可能になっていますが、それらの措置は、あくまで一社による地域独占という供給体制を補完する措置に過ぎません。

 そして、政府も電力産業も、それを変える気は今のところ毛頭ないようです。だからこそ、例えば電力不足への対応では節電ばかりが声高に叫ばれ、電力融通の拡大は補正予算で措置されているものの、調査費のみで、補完措置の規模を少し大きくしようというだけです。

 また、将来の電力供給については、原発推進派は一社による地域独占を前提にしているので“原発推進は不可避”と叫んでいます。(それに対して、原発反対派は電力供給体制に関する考察なしに感情論で“脱原発、再生可能エネルギーだ”と叫んでいるので、これも問題ではあります)。

 しかし、前代未聞の震災・津波と原発事故を経験した日本が、電力供給についてだけは震災前の延長線上を考えるだけで良いのでしょうか。私は個人的に、電力供給についても、ゼロから新しい姿を目指すべきではないかと思います。

 それは、今回の震災で、日本が世界に誇ってきた安心・安全という価値観は地に落ちてしまったからです。その信頼の回復は並大抵ではありません。かつ、世論を考えると、原発については新規立地はもちろん、定期点検中の原子炉の再稼働も困難になるはずです。

 それならば、震災を機に、原発に頼らなくても大丈夫な電力供給体制という新たな日本ならではの価値観の確立を目指す位の“大風呂敷”が必要ではないでしょうか。そのために必要なのは、一社による地域独占を変革することです。(ちなみに、私は原子力産業を捨てろとは言っていません。1990年代の米国がそうであったように、国内で原発がダメでも、原子力産業は海外でビジネスを拡大できます)

 例えば、超伝導の技術も使った直流送電を積極的に導入すれば、西日本から東日本に送電することがもっと容易になるようです。送電の地域独占を緩和することでその積極的な導入が可能になれば、今後数年は続くであろう東日本の電力不足の解消にも貢献します。

 そして、既存の電力供給体制が前提の規制が緩和されて電源の分散化が容易になれば、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを自家発電に取り入れるところが増え、それが更なる技術進歩とコスト低減につながります。また、メタンハイドレードやオーランチオキトリウム(藻を使った代替燃料)など様々な新エネルギーの実用化にもつながるはずです。

 関東大震災後に帝都復興院総裁となった後藤新平は、壮大な規模の震災復興計画を考え、“大風呂敷”と揶揄されました。しかし、最初に大風呂敷を広げたからこそ、部分的とは言え先進的な取り組みが復興段階で可能になったと言えるのではないでしょうか。

 そう考えると、東北の復旧・復興についてはもちろん、震災後の電力供給体制を考えるに当たっても、現代の後藤新平と言える人が現れることが必要ではないでしょうか。そうした人が電力の地域独占を打破することが、震災で失った“安心・安全”に代わる新たな日本の価値観の確立につながるはずです。

 そのためにも、“脱原発”、“原発推進”といった不毛な議論は止めるべきです。そうした表面だけのゼロ・イチの議論に終始しては、電力供給体制は何も変わらず、地域独占を維持したい電力産業を利するだけです。



復興のところまで書きたかったのですが、予想通り長くなりすぎてしまい、
また次の記事で書かせていただきます。
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2011.04.30 Sat l 仕事的な情報 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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