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GPSを使って津波を予測するシステムが開発されたとのことです。

GPSで30分前に津波予測 東大や日立造船が開発へ  :日本経済新聞

 東京大学と日立造船などは全地球測位システム(GPS)を使い、沖合100キロメートルで津波をとらえる技術を開発する。現行のGPSでは沿岸から十数キロメートル以遠の観測は難しく、津波の到来がわかるのは早くて10分前。より遠くの海上で観測が可能になるよう通信や位置決めの方法を工夫し、到達30分前に精度よく予測できるようにする。3年後の実用化を目指す。
     ・・・ 続きを読む


海上GPS局は東北沖など、比較的沿岸から遠い場所で起こる津波をとらえる技術で、東海地震など陸地よりの海で起きる津波への応用は難しいとのこと。
あとはいくら予測ができても、実際に非難しないと被害は防げません。
別のブログでも書きましたが、予報の精度をあげていくこと、備えをきちんとしておくことが重要ですね。
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2011.05.22 Sun l IT的な情報 l コメント (0) トラックバック (0) l top
以前の記事で、復興・復活・再生等、「共通キーワード」の選択がモチベーションにつながり、それによってその内容も変ってくること、また復興には人・体制・場の設営が重要であると書かせていただきました。関東大震災の際の復興計画は、情けないことに今回初めてその詳細に触れ、あらためて人の力を知ることになりました。

企画屋のはしくれとして、その復興のプロセスのほんの一部について想うところをlogしたいと想います。自分の想いにいつも「ぴぴっ」とくるアゴラさんの記事引用中心で申し訳ないですが、自分の想いも織り交ぜつつ、書かせていただきます。

劣悪なニッポンの景観 ―復興で街並みは変わるか―赤沢 良太
配信元:アゴラ

建築基準法には、地震と風の規定はあるが、津波は考慮してない。土木学会は、津波を堤防等で防ぐとこはできないとコメントした。建築・構造物にも限界がある。それはそれで、対策を考えなくてはならない。

まだまだ復興という段階に至っていないが、再建する際には、乱開発の歯止めをかけてほしいと思う。まだ不謹慎か。まずは生活の糧を確保せねばならないのだから。

しかし、中長期的な復興を考えると、近代の日本の景観はよいものだったろうかという反省も欲しい。否、ヨーロッパの街並みと比べたら貧困だ、と答えたら、それは西洋中心主義オリエンタリズムに侵された偏見だと批判されるだろうか。
しかし、私はここで、日本の景観には多くの問題があるという立場をとる。明治維新以降の急速な西欧化による乱開発や戦後復興に大きな原因があるのかもしれない。日本の為政者には都市景観に対する思い入れがなかったからなのだろうか。

文明開化以降の具体的な都市景観の劣化は、建物の形式が和洋混在となり、かつ制限が緩かったので、スカイラインがまったく不揃いになった。斜線制限も最悪だ。電柱と電線の錯綜で、見苦しい。交通量の増加に対応し道路網整備を無秩序に行った。緑地を含む公園を配置する考えもない。

それでは、はるか昔には、景観に対する理解があったのかといえば、怪しい。そのような理解がなくても、江戸の景観は結果的に美しくなったといえる。江戸時代の風景画を見れば分かるが、武士や町民の住宅は構造も部材も寸法もほとんど同規格で、建物の高さや形状に大きな差異がない。そこに大名屋敷や寺社が変化をつけた。周縁には緑地も残っていた。これらは、為政者が意識的に作り上げていない。結果として現代の私たちから見て美しい街並みができた。

その後、戦後の高度経済成長期以降は高速道路や鉄道の高架が都市景観を大いに劣化させた。電線の地下埋設化は進まない。建物の高度規制や外観保存も統一性がまったくない。乱開発の負債を清算するには時間がかかる。

また、都市計画や景観の法律は、必ずしも強制型の法律にはなっていない。手続きと守る範囲が書いてあるだけで、あとは市町村に投げる。市町村が頑張らなくてはいけない。

また、日本の法律では、空地はよいものだと考えている。だから、様々な建築を拘束する規定の緩和をするとき、空地をとれば、その見返りとして制限の緩和をする。つまり、空地さえ取ればどんな建物でもよいとなる。建築行政の貧困だ。その結果、街並みは壊れ、建物と建物の間は歪になった。

もちろん行政は、壊しただけでなく、建て込んだ街並みを直したり、狭い道路を広げたりした。しかし、今は建て込んでいる町中に超高層が建つことを許す。街をつくっているとは言いがたい。

法的には、斜線制限や日影規制、セットバック緩和、天空率の導入、集合住宅を突出させる住宅容積率の緩和などいろいろあったが、建築の形や街並みを考えない都市計画法や建築基準法で規制しようとするのが過ちの始まりだ。また、都市計画法は大都市だけの法律にして、あとの都市はそれぞれに応じた法律にしてはどうだろうか。建築基準法も、気候の違う地域が一律というのはおかしい。

提案としては、税制をまちづくりに連動させるのはどうだろうか。景観が良いものを作ると資産価値が上がる。ところが、そうすると固定資産税は上がる。本来自分の資産価値が上がるのを誇るべきだと思うのだが、どうもちがう。今の税システムも問題だろう。コンクリートにすると税金が上る。これでは、地震に強い街にはならない。景気浮場のため容積率アップや規制緩和が大手を振っているが、この税制は改善されない。しかし、景観行政でも税制は大きな力を発揮するだろう。



ツイッターでもRTした記事なのですが、バルセロナのサグラダファミリア付近の上空からみた風景という記事がありました。普段目にするのはサグラダファミリアを見上げる風景。でも上空から見下ろすとびっくりするくらいの風景が広がります。
そういう構想感、設計感、何より将来感を持って望んでもらいたいと想います。せっかくの機会でもあるのですから。
しかし、ただ想うだけではだめな様で・・・税金と絡めるあたり、まったく字b分の了見の狭さ・浅はかさに愕然としつつ、さすがすごい・・と思いました。

これは圧倒される…バルセロナを見下ろした風景に世界中から驚きの声 らばQ

らばQより「サグラダファミリア付近を上級から撮影したもの」
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実際の物理的復興もさることながら、日本が世界に誇るアニメーションの世界に何かヒントはないでしょうか?

仮想世界での速やかな復興。先日書いた記事「9.11で生まれ、3.11で死んだソーシャルメディア」の様に、いい面も悪い面も含めて、今回あらためてネットワークパワーというものが顕在化したと想います。


東北エリアの今後の復興方法について記載された記事があります。

東北を電力ベンチャー拠点-大西 宏
配信元:アゴラ

現在稼動している原発を止めるかどうかの議論はこれからのことでしょうが、少なくとも日本では新しい原発施設の増設は現実的ではなくなりました。とうぜん、化石燃料による発電は、資源価格の不透明性、また二酸化炭素増の問題があり、自然エネルギー利用へとむかっていくものと思います。しかし、なにゆえか太陽光発電だというにところに結論が集まりすぎているように感じます。あまりにも結論を急ぎすぎているのではないでしょうか。
どの発電方式が望ましいか、あるいはいくつかの発電方式の組み合わせ技術なのか、それはどのようなイノベーションが起こってくるかで変わってきます。

ソフトバンクの孫社長から、「自然エネルギー財団」設立、東北の復興事業としての「東日本ソーラーベルト構想」までが示されていますが、もちろん東北で太陽光パネル生産の拠点化を行えば、東北経済復興の役には立つでしょうが、問題はその後の運営がどうか、採算性がとれるのかの問題が残ります。

疑問に感じるのは、池田信夫さんもご指摘のように政府からの補助金を頼りにしなければ成り立たないというのでは、電力の本命といえるかどうかは危うさがあります。また太陽光は昼間の電力ピーク対策には有効でしょうが、天候に左右されるために発電量が安定しないという問題もあります。積雪地帯の多い東北で冬期の発電が確保できるのか、あるいは設備の保全も懸念されます。

池田信夫 blog : 再生可能エネルギーは原発の代わりにはならない

しかし、池田信夫さんのこの議論でも、「原発」対「太陽光」の二者択一のようになってしまっていることろが気になります。

自然エネルギーによる発電と言っても、なにも太陽光だけではありません。水力、風力、バイオマス、地熱などさまざまな技術がありますが、いずれにも課題があり、まだ本命だと断言できるものがあるとは思えません。

しかし、特に東北地方は、環境省が、風力や地熱、水力発電などで火力や原子力などによる現行の発電量を上回る潜在力があるとする調査結果を発表しています。
風力や地熱の潜在力大きいと発表 東北のエネルギー調査 - 47NEWS(よんななニュース) :

また最近明るいニュースが連続しているのが地熱発電です。
東芝、ニュージーランドの地熱発電所向け設備を受注 - ITmedia ニュース
「地熱」輸出、官民タッグ インドネシア試掘で円借款 (1/2ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ) :

こういった自然エネルギー発電を促進するためには、発電事業への参入障壁を取り除くことが絶対条件になります。政府主導のプロジェクトで成功したものなどはなく、発電と送電、配電で、発電の自由化を推し進めることでしょうが、まずは東北エリアに、東電エリアに売電するための電力会社設立を促進してはどうかと思います。

商社でも、製造業でも、東電以外の電力会社でも、あるいはまったく異なる分野からでもいいのですが、重要なのは事業として行わなければ、本当に必要なイノベーションは起こってきません。急ぐべきは発電方式を今決めることではなく、電力ベンチャーが起こるスキームをつくることなのです。

また、どの発電方式が望ましいかは市場が評価し、淘汰してくれます。電力自由化を進め、さまざまな発電拠点を東北にまずは集約させ、今後の東電エリアの電力を供給させればいいのでなないでしょうか。



東北エリアに東電へ電力を売るための電力会社を作る。しかも異なる分野からでもいい。確かに事業視点で考えれば、誰が起点になってもいいし、逆に全く異なる分野の人の舵取りが必要なのかもしれません。


復興において、ジャパンリスク・・・裏返せばそれだけブランドがあった日本・・・をどう立ち直らせるかということも、重要なイシューです。これは国というより、企業人たる自分達の方に大きな責があるのだと想っていますけれど・・


ブランディングの視点から見た震災- 青山 永  
配信元:アゴラ

ブランディングに携わる者として、今回の震災をその視点から捉えてみたいと思います。
ポイントは下記の3つと考えます。

1)「ジャパンブランド」の顕在化と毀損
2)「コモディティとブランド」の関係
3)震災対応における「コーポレートブランディング」

今回の震災において、長期的な視点から最も深刻な問題の1つがジャパンブランドの毀損です。世界で最も安全に対しての要求水準が高く、それに対応した価値基準や技術力を持っていることで築かれたジャパンクオリティというブランドは、残念ながら原子力発電所の事故によって完全に否定されてしまいました。したたかさと論理性を欠いた政府の言動とメディアの煽動により、それがより悪い形で世界に流布していきました。
長い年月を掛けて築かれてきたジャパンブランドは、これまで多くの日本人自身に強く認識されていませんでしたが、皮肉にも今回の震災により、より多くの日本人に印象づけられるされることとなり、そして同時に傷物になってしまいました。このまま放置すれば、ジャパンブランドはじわじわとさらに価値を下げて行ってしまうでしょう。

これまでジャパンブランドを利用して観光立国を目指していた日本の政策は、それを復活させるために多大な時間とコストを掛けなくてはならないでしょう。本来、長い年月をかけた信頼の蓄積によって築かれるブランドも、現在は意図的に強化されることで短期間にその価値を高めています。これまでの「結果としてのジャパンブランド」から、「戦略的なブランドの構築」への進歩が期待されます。せめてもの救いは、被災者の方たちがとった高い倫理観に基づく行動は、日本の国民のブランド価値を高めたともいえるでしょう。

次の視点は「コモディティとブランドの関係」が変わったことだと感じます。
教科書的なブランディングにおいては、成熟した消費社会においては、あらゆる消費財がコモディティ化していくので利益率は低減し、その商品のライフサイクルも短命化していく。そこで何らかの差別化を行い、「特に選ばれ続ける」ためのブランド化を行わなければならないとしています。
しかし、今回の震災においては、コモディティの最たる物である、水やトイレットペーパーなどといった商品の重要性が当然のことながら再認識されました。これは被災地だけではなく、サプライチェーンが途切れてしまった流通の姿や、意外にも多くの人が行った買い占めという行為も巻き込んで、日本全体において、本当に必要な物はなんなのか、それは所有すべき物なのか、いくらでそれを買うのか、というブランディング以前の問題となり、物財に対する顧客期待値もリセットされてしまったと言えるでしょう。この状況は今後の消費行動にも影響を与え続けることになると思います。

また究極のコモディティとして電力をあげることが出来ます。これまで電力はブランディングから最も遠い位置にあったと言えますが、今後はどのような手段で作られた電力なのか、誰が作った電力なのかが意識されるでしょう。若干意味合いは異なりますが、そのクリエイティビティによって高く評価されているApple社が、データセンターの電力消費に関して、石炭由来のエネルギーを大量消費しているという事実が環境保護団体のグリーンピースによる調査で明らかにされ問題化している例もあります。

最後に、当事者が意図的にそう考えたかどうかは別として、震災対応によってブランド価値を高めた企業があったという視点です。例えば大手の流通企業は、その強固な物流システムと企業グループの総力を活かして、政府よりも確実に、正確に被災地への救援物資を運び入れることを実現しました。これまで地域社会の小売業を圧迫したという否定的な論調で語られることも多かったショッピングモールやその核テナントとなるGMS,また市中に展開するコンビニエンスストアなどが、今回の震災時において、救援物資の提供や、いち早く営業を行うということで、ライフラインの確保に貢献したことは、彼らのブランドイメージを大きく向上させたことは明らかです。
もちろん、彼らの物流システムは数多くの協力会社の集合によって成り立っている事も多く、例えば輸送トラック1つ取っても、その1台1台のトラックには個別の運輸会社の名前が入っている訳ですが、荷台に大きく書かれた「統一された1つの小売ブランド」として人々に語られることで、そのブランドは大きな恩恵を受けているわけです。

また、巨大企業の創業者などが、多額の寄付を行ったことなども、その企業ブランドのイメージを大きく向上させたと言えます。あえて意地悪な見方をすればですが、例えば携帯電話の例で言えば、本来であればこのような震災時おいて最も重要なのは通話品質自体であり、それを支える基地局やアンテナへの設備投資が問われるはずですが、その数千億円以上の投資を避けてきたことが問われるよりも、創業者の百億円の寄付によりブランドイメージを向上させることができたのであれば、安い物だったのかもしれません。

以上のように、ブランディング観点から今回の震災をとらえてみました。傷ついたブランドを建て直すのは、新たにブランドを確立することよりも難しい場合が多いです。今後の復興において、ジャパンブランドを再び輝かせるという視点も、時の為政者には持ってもらいたいと願うばかりです。
(青山永  株式会社齊藤三希子事務所 代表取締役)



ジャパンブランドを復活させるのか、もしくは新しいジャパンブランドを創り上げるのか、とても考えるところでもあります。悲しいかな弊社はドメスティックなビジネスを主体としてきて、その転換点として過去数年でグローバル化を目指して大きな経営方針の転換をはかりました。結果的に海外売上高比率/利益比率も半分とは言えませんが上がってきて、ここしばらくの円高で苦しい想いをしてきたところでした。そこへきてこの震災。概ね回復してきてはいるものの、原料がない、販売先がない、客を海外企業に取られて行く、そんなズタズタなサプライチェーンの状態で、回復を待っていていいのだろうか・・とも思います。思い切って、グローバル戦略を見直すとか、サプライチェーン戦略を見直すとか、そういう舵取りをしないと、段々と負のスパイラルへ落ちていく気がします。建て直しは新ブランド確立より難しいというコメントがありましたが、それぞれのレベル(会社、団体、国・地域、等)によって考え方も異なると想うので、それぞれが良く考えて決断し、全体としてよい方向にいくことが最終的にジャパンブランドの建て直しにつながるのかなぁ・・と想います。

時に、やはりポイントは人の話になりますね。
有事の際、そして復興の際に必要なリーダー像に関する記事をlogします。

「有事でも変わらないリーダーシップの本質」 ロバート・サイデル アメリカン・エキスプレス日本社長に聞く
配信元:ダイヤモンドオンライン

――震災時はどこに?

 出張先のニューヨークにいた。現地時間の午前3時ごろ電話で知らされ、飛び起きて、すぐさま対応を指示した。

――どのように対応したのか。

 当社には、自然災害など非常事態が発生した際に、状況の把握や対応に当たるクライシスレスポンス(危機対応)チームがある。情報システムからセキュリティ、オペレーションなどさまざまな部署の社員で構成され、有事の際には、世界の主要拠点で編成されることになっている。今回もそのルールに則って、危機対応チームを編成し、事態に対応した。

 最初に心配したのは、社長として当然、全社員の安否だった。われわれは、自然災害のように大きな潜在リスクがある非常事態においては、社員の安全確保にプライオリティを置く。東北エリアにいた社員やその家族の安全を確認できた後は、顧客対応に全力を注いだ。

――今回のような非常事態に遭遇したことはあるか。

 当社は多国籍企業なので、世界の各拠点で過去にも深刻な災害に何度か直面している。2004年のスマトラ沖地震もそうだ。こうした事態に際しての対応の仕方については、経験があることから、比較的よく理解している会社だと思う。実際、今回もアジアの他の拠点は日本オフィスを迅速にサポートしてくれた。日本が震災対応という喫緊の課題に経営資源を集中できるようにと、他の課題を引き受けてくれたのだ。

 また、個人的にも、前赴任先のタイでスマトラ沖地震を経験している。2004年当時、私はすでにタイオフィスから日本オフィスに転じていたが、そのときは偶然タイにいた。そうした経験もあって、自然災害の怖さは身にしみて分かっているし、危機の際のリーダーシップについても、マニュアル以上のものを自分自身で感じ取っているつもりだ。

――どう感じ取っているのか。

 いわずもがなだが、まずリーダーたるもの、ほんの僅かでもパニックしている様子など見せてはいけない。危機の際には、社員はいつも以上に真剣なまなざしでリーダーたちの一挙手一投足を見つめている。社長に限らず、職場の各リーダーが少しでもパニックしていると分かれば、その気持ちは伝染し、組織内で増幅され、社員の混乱を招くことは必定だ。

 第二に、組織の誰をも巻き込む災害のようなケースにおいては、コミュニケーションの重要性はよりいっそう増すものだ。たとえば、福島原発事故発生以降の最大の不安は、情報が不足していたことだ。もちろん、われわれは“外側”をコントロールすることなどはできない。しかし、少なくとも“内側”は違う。限られた情報の中で、明確な判断を迅速に提供することで、組織内の要らぬ混乱を避けることはできる。

――しかし、原発事故をめぐる不安は、情報不足もさることながら、信憑性に乏しい情報がたくさん飛び交ったことだ。憶測情報の中で経営判断を下さなければならないところに難しさがあるのではないか。

 その点については、私はこう思う。リーダーは報道に振り回されてもいけないが、報道に耳を塞いで憶測として一方的に排除するのもいけない。とにかく切迫した時間の中でスピーディな判断が求められているのだから、各方面の見識に照らして情報を精査し、社員に伝える際にはどこまで確証が得られているのかも含めてオネスト(誠実)になることだ。

――実践例を教えてほしい。

 たとえば、3月23日に、東京都の水道水から基準値を超える放射性ヨウ素が検出され、乳児の水道水摂取は控えるようにとの報道があった。この場合の乳児とは、1歳未満ということだったが、私はそのニュースを伝えたうえで、1歳未満ではなく3歳以下の子どもを持つ全社員を対象に、家に持ち帰るペットボトルのミネラルウォーターを提供することを即座に決めた。報道や発表よりもコンサーバティブな方向で決断を下したわけだ。こうしたときは、安全第一で保守的に判断すべきだと私は信じている。

 大事なことは、とにかく素早く行動することだ。われわれにはすべての情報はないかもしれないが、その中でベストと思われるディシジョンを迅速に下し、社員と対話するのだ。ちなみに、この点は、有事、平時に関係ないリーダーシップの不変の部分だと思う。

――それは、どういう意味か。

 普段のビジネスライフでも、今回のような非常事態の際にも、オブジェクティブ(目標)に対して最大限クリアでなければならないということだ。ゴールやビジョンについて、リーダーは暗示的ではなく明示的でなければならない。目標が社員に理解され、シニアリーダーチームのサポートを得られて初めて社員とのコミュニケーションは可能になるものだと思う。

 要するに、有事の際のリーダーシップは、平時の際のリーダーシップの積み重ね、すなわち社員の信頼をベースにしているものであることを忘れてはならない。対話をせず一方的に命令することがリーダーシップであると思っているとすれば、それは平時にも有事にも有効ではないだろう。

――あなたは、そうしたリーダーシップの要諦を実践できていると思うか。

 そう願っている(笑)。私はとにかく人びとのダイバーシティを引き出せるようなトップでありたいと思っている。

――ダイバーシティを引き出すとはどういう意味か。

 日本でダイバーシティ(多様性)というと、直感的に人種や文化、性別を想起するかもしれないが、私はこの言葉の含蓄はもっと深いと思っている。もちろん、女性の幹部登用は、ビジネス社会においていまだに大きな課題だ。特に日本ではそうだろう。だが、それと同等のレベルで、性格や発想のダイバーシティを尊重することも重要だと考えている。

 たとえば、アメックスの日本オフィスには1000人以上の社員がいるが、“ガイジン”社員はじつはそれほど多いわけではない。つまり大多数は日本人だ。しかし、パスポートのダイバーシティはなくとも、性格や発想のダイバーシティは豊富に持てるはずだ。

 私は、リーダーになって比較的早いうちに、人にはそれぞれの性質にあった貢献の仕方があるということに気付いた。内向的な人もいれば、外交的な人もいる。プロセス志向の人もいれば、クリエイティブな人もいる。リーダーの役割は、その良さを引き出すことだ。クリエイティンブな人をプロセス志向にはできないし、その逆も無理だ。物静かだからといって、組織に貢献していないわけでも、何も考えていないわけでも、相対的に良い考えを持っていないわけでもない。ダイバーシティを定義し、それが生かされる職場環境を作ってあげることがリーダーの役目だと私は思う。

――尊敬するリーダーはいるか。

 経営者ではないし、故人になるが、二人のリーダーを尊敬している。

一人はロナルド・レーガン元大統領、もう一人はロシアのピョートル大帝だ。

 私は、リーダーを評価する際には、二つの軸があると思う。ひとつは何を実現したかというWHATの部分であり、もう一方はどのように実現したかというHOWの部分だ。

 たとえば、レーガンについて、私は、彼のWHAT、すなわち実現したことや政策の全部に賛同しているわけではないが、実現したいことに対して明確なビジョンを持ち、国民に的確に伝えることができた偉大なコミュニケーターである点に深い尊敬の念を抱いている。具体的には、周囲の批判や懐疑論にも動じず、自分の任期中に冷戦が終結できると信じ、そのビジョンを説得力ある言葉で伝えつづけ、アメリカ社会のためだけではなく世界のためにアメリカができることに国民を気づかせた。

 ピョートル大帝については、WHATの部分を尊敬している。52年の短い人生で、彼は当時前近代的国家にとどまっていたロシアを一気に欧州の大国に引き上げた。ロシアの針路に対してビジョンを明示し、強い指導力と対話力によって、それを実現させた。

 彼らに有事と平時のリーダーシップのあり方を聞いても、本質的に違いはないと答えてくれたのではないだろうか。




タイムリミットは9月、復興は日本再生の一里塚出でよ真のリーダー
配信元:JBPRESS

 今回のゲストは、元総務省大臣官房審議官で、阪神・淡路大震災当時の対応を指揮した稲村公望さん。有事の政治のあり方、復興予算や東電への対応、また経済性のみに走りすぎた原発の実態などをお聞きしました。


原発問題の根底にあるのは金儲け第一の市場原理主義


稲村 地震はもちろん天災ですが、福島原発の惨状は明らかに人災です。

 確かに津波の威力は途方もないものでした。公式には高さ十数メートルということになっていますが、映像を見ると実際はもっと高いのではないか。しかし、だからといって「想定外」の一言で片付けるわけにはいきません。
 私は金儲け第一の拝金主義、市場原理主義こそが、根本的な原因だと思っています。もともと40年だった設計寿命が、いつの間にか60年に引き延ばされたというのは、つまりそういうことでしょう。
 減価償却が終わった施設は運転すればするほど儲かります。利益を最大化するという市場原理主義に則るあまり、安全をないがしろにしたわけです。
 そもそも、ひとたび事故が起きれば自然環境がどうなってしまうか分からないのが原発というものです。将来に責任を持てないにもかかわらず、ただコストが安いからと原発を造り、絶対安全だと言い続けてきたのは大きな間違いでした。
 もちろん儲からないことばかりやっているわけにはいきません。しかしこの20年ほどを振り返ると、効率性、収益性ということばかりが偏重されてきたように思います。

 私はあえて利益を度外視することの大切さを、ここに強調したい。郵政民営化に反対した理由もそこにあります。儲からないことをあえてやるから本当の信頼を勝ち得ることができるのであり、それは公的な存在であってこそ可能なのです。


政府は大胆な復興予算を組むべし。TPP参加は止めよ!

 政府に苦言を呈したいのは、震災への対応があまりにも遅いことです。被災者の方々のための仮設住宅などは、予算がどうこういう前にどんどん造るべきです。一刻を争う問題なのですから、金の話は後回しでいいでしょう。
 スマトラ島沖地震のときもハリケーン・カトリーナのときもそうでしたが、世間の関心は半年もすると薄れてしまうものです。すぐにでも議論を深めて、あと5カ月のうちに復興の方向性を細部まで詰める必要がある。これに失敗したら、日本という国は「沈没」しかねないと思います。
 幸いにして日本には金があります。郵政の金だって何兆円とある。民営化で目減りしたにしてもまだ多くは残っていますから、それを原資にして復興予算を作ってはどうでしょう。
 こういうときはちまちましたことを考えずに、ある金を大胆に使うべきです。金持ちから税金を取るならともかく、消費税率を上げることはありません。

 もうひとつ、TPPには参加すべきではないことも声を大にして言いたいと思います。政府は震災のどさくさに紛れて閣議決定しましたが、とんでもないことです。
 参加することで潤う業界も一部にありますが、日本全体で言えば明らかに損をします。背後には、裕福な日本から金を巻き上げてやれという海外の勢力と、尻尾を振ってそれに与する国内勢力がいる。
 菅(直人)総理は「第三の開国」と言いましたが、TPPは「第二の敗戦」のような事態を招きかねません。中身を知れば日本人の大半が反対するはずですが、そうなる前に決めてしまおうとしているのも大きな問題。とにかくTPPには断固反対です。

中略

政治の枠組みもライフスタイルも、根本的に変えるべきかも?

 今の日本は真の指導者を必要としています。私が思うにそれは、小さなことにこだわらず、超然と大局を見て適時適切な決断を下し、部下を信頼して実務を任せられる人物です。
 菅総理がそういう指導者かどうかについては、疑問を呈せざるを得ません。被災地を訪ねて、ヤジを飛ばされたり罵倒されたりしているとなればなおさらです。
 責任問題は別として、菅さんは事態が落ち着いたところでなるべく早めにお辞めになった方がいいと思います。国もそうですが、組織というものは、この人のためならと思われる指導者がいないと持ちません。何はなくともみんなに支持されるということが、リーダーの必要条件なのです。
 問題は菅総理が辞めた後、どうするかですが、私は政党という枠組みを超えた政界再編をすべきだと思います。
 国が未曾有の危機に直面している今、平時のルールに縛られることはありません。権力機構としての政府を国民のために動かすということを、最優先すべきです。
 与党から総理を出すことにこだわらず、例えば人格的に優れた人を選ぶというのもひとつの方法でしょう。
 ある意味で、今はいろいろなことを根本的に変えるチャンスかもしれません。政治の枠組みもそうですが、エネルギー政策も太陽光発電や地熱発電などにシフトすべきです。
 電気をむさぼるように使う私たちのライフスタイルも、これを機に見直してはどうでしょう。




上記記事の中に「意識の希薄化」という内容がありましたが、確かにそうかもしれません。何も普通に暮らすことが悪いわけではなく、危機の只中にいることを、感じないといけない人が感じ続ける必要があるということだと想います。


復興、再生の強い意思を胸に、日本人ひとり一人が行動を始めることが重要
配信元:アドタイ

「危機的事態」への意識、次第に希薄化

東北地方太平洋沖地震及びその後の津波で被災を受けた多くの方々の状況を考えると、心が張り裂けそうになるが、さらに続く原発問題、計画停電、余震、液状化現象など、現在も対応しなければならない課題は山積している。

さらに、日本に対する原発風評問題や夏以降の節電などで生産物のキャンセルが相次ぎ、外国からの観光客は大幅に減少、国際会議の開催場所も国外へ変更されるなど、その影響は日増しに大きくなっている。

一方で、政府等の行う記者会見に対する国民の反応は徐々に希薄化し、危機的事態そのものが平常時と同じくらい冷静に、いや無頓着になりつつあると感じるのは私だけであろうか。

先日、福島県に在住していた友人ご家族が避難所生活から脱して大阪へ移り住んだことを聞いた。そのために東京で働いていたお子さんも仕事を辞め、両親とともに大阪へ引っ越した。しかし、2週間後には、慣れない地方生活に精神的に疲弊し、再び故郷の土地の匂い、懐かしい環境に会いたくなり、福島に戻られた。お子さんは東京に再び戻ったが、同じ仕事につけず、今も職探しをしている。

今、「変化」への対応が求められている

最近では、危機的事態もその裾野は大きくなるばかりであるが、関心は空洞化しつつあるように感じる。PTSDで苦しんでいる人々、余震があるごとに眠れぬ夜を過ごしている人々、私の周りにもそうした苦しんでいる人々が多くいるが、そうした人々の声も聞こえなくなってきている。

日本はこれからも危機的事態を受入れながら、日本人という相互の心の絆を強固にして、強い精神を持っていかなければならないと思う。ただ流れに身を委ねるのではなく、ひとり一人が今後も続く課題や新たな危機に、挑戦し乗り越える強い気持ちを無くしてはならない。

再生にはまだ長く時間がかかることをしっかりと認識した上で、声なき声を集め、お互いに助けあう優しい気持ちを持ち続けることが復興の一番の早道である。

電車でご老人に席をゆずる若者を見た。新聞を広げて他の乗客に迷惑をかけるような人を見なくなった。目の悪い方を誘導してあげている高校生がいた。日本人の絆は、小さい積み重ねではあるが、徐々にその結びつきを確実な強さに変えつつある。

「変化」を受入れ、対応する力を身につければ、日本という国は再生ができる。重要なのは、今日からその行動をひとり一人が始めることだと思う。




ここに引用させてもらった記事を、素人ながら見させてもらって、いろいろ考える機会ができたことは、自分にとっては不謹慎ながらありがたいことなのだと想っています。
後はこういう貴重な意見をどう活用できるか・・・がんばらなきゃ。








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2011.04.30 Sat l 仕事的な情報 l コメント (0) トラックバック (0) l top
最近気になる記事をbookmarkしつつ、まとめられなかったので、今日は企画屋のはしくれとして少し自分自身のために考えて見たいと想います。

今回の一連の流れの中で、政府の対応についてそのとりまき含めた議論、別の論点での電力問題の議論、そして復興についての議論とあり、その中で如何に対応について真剣に議論し(もちろん私の様な一般人ではなく、議論の壇上に立てる人。ただし、一般人は一般人で、社会の縮図である企業内、自治体内、友人達の関係、親族の関係、において集団における行動とそのリスクについてよくよく考えるいい機会になります)、そしてクリティカルパスを将来構想を鑑み良く考えた上で、協力なリーダーシップを持ってそれを遂行していく。そういう一連の流れを理解するには、可能な限り情報に接する機会をつくることが重要だと、今回強く感じました。

今回の記事は、1)今回の政府の対応について、2)電力についての議論、3)それを踏まえた復興・復活のロードマップについて、という流れでまとめてlogしていきたいと想います。長めの記事になると思いますが、御容赦ください。

菅政権の黄昏 山口 巌
配信元:アゴラ

国民にフラストレーションとストレスを与え続けた菅政権も、いよいよ最後の時を迎える様だ。幕を引くのは自民党である。

ロイターが昨日伝える所では自民党を中核とする野党が、がれき処理をはじめとした当面必要な財源確保の為の、2011年度第1次補正予算に就いては賛成に回る事はほぼ既定事実の様である。しかしながら、赤字国債発行を認める特例公債法の与野党間協議は暗礁に乗り上げている。

[東京 28日 ロイター] 11年度の赤字国債発行を認める特例公債法の成立の見通しがたたない。政府・民主党は1次補正予算案と合わせての採決を目指したが、与野党協議が不調に終わり、それぞれの採決を切り離した結果、展望が開けなくなった。 自民党の林芳正政調会長代理(自民党シャドー・キャビネット財務大臣)は2月のロイターのインタビューで、11年度特例公債法案が10年度内に成立しない場合でも、当面は税収や政府短期証券でつなぐことが可能なため、「7月ごろまでは資金がなくなることはない」と述べ、バラマキ予算である民主党マニフェストの破たんを質すことこそ「本筋」の政策論だとしていた


政策通の自民党林調会長代理が指摘する通り、当面の5月、6月の遣り繰りはつくとしても、7月以降は菅首相が辞任するか、歳入欠陥により政府が機能不全に陥るかの2者択一であり、如何に保身を身上とする菅首相であっても辞任は止む無しであろう。

阪神淡路大震災で実績のある、政令で設置できる復興委員会を設置せず、法律がないと設置できない復興庁なるものに拘泥し、結果墓穴を掘ったのではないか?

結局の所、保身に拘る余り、政府主導での復興委員会設置を忌避し、野党を巻き込む事でのリスク分散を図り、来年設置予定と聞く復興庁なるものを規定事実化する事で政権の延命を図ったのではないか?
以前、記事に纏めたが、こんな組織が稼働する筈かない。
看過出来ないのは、被災地で苦しむ避難民が置き去りにされている点である。

twitter上での、東大、玉井克哉教授の呟きが辛辣である。断っておくが玉井先生はバランス感覚に優れた極めて温厚な方であり、最初読んだ時は別人かと疑った程である。

政令で設置できる阪神淡路復興委員会という前例が目の前にありながら、法律がないと設置できない復興庁なるものにこだわるのは、純粋に政府の問題であり、国会の構成とは無関係です。

東京にいるとどうしても原発に目が向きがちですが、それと震災被害は別です。原発に目を奪われ、震災の復興が滞ってきたのは否定できないし、それについては全責任が現政権にあると思います。

小政党から出た村山連立政権でできたことが、なぜ衆議院単独過半数の政権にできないのか。政令と予算は意のままなのに、なぜ法律でやろうとするのか。しかもそのための与野党協議をなぜ四月に始めるのか。すべて、現政権の問題です。なお繰り返しになりますが、これらは専ら震災復興の問題です。

端的に無能なんですよ。政治学的には内閣と別に各省が権力を持っているわけで、権限を奪おうとすれば抵抗するのが当然。それがわかってるのに強行を図る。無能の一語

もちろんそうです。だから野党も党内野党も協力しない。RT @myikegami: …復興にかこつけて、自分の政治生命の延命を図っていると言われてもしょうがない状態かも

http://twitter.com/#!/tamai1961

玉井先生にここまで言われる様では、菅政権の余命は持って1~2ヶ月と言う所ではないだろうか。立つ鳥跡を濁さずで、是非とも菅首相には潔く辞任して戴きたいものである。

所で、菅政権最後の仕事となるであろう1次補正予算案の中身は如何なるものであろうか?

東大、岩本教授のブログが実に判り易く説明してくれている。

今回の補正予算には,既存経費の削減による財源確保が不十分,基礎年金国庫負担の停止は適切ではない,という2つの重大な問題がある。

国会公務員人件費の削減も取り沙汰されていたが,盛り込まれなかった。もともと民主党のマニフェストは,国家公務員人件費の2割削減をうたっていたのだが。


菅政権の特徴の一つは徹底したマニュフェストの軽視、無視であるが、国家公務員人件費の2割削減も無視しているのであろうか?看過出来ない事実である。

財務省公表資料によれば国家公務員数は56.4万人、人件費は5.2兆円との事である。国家公務員人件費の2割削減が実行されれば1兆円程度の財源創出となるが、何もやっていないと言う事であろうか?政府は国民に対しこの事を説明すべき強く思う。

予備費8100億円を使用する他は既存経費を削減して国債を発行しないこととしているが,これはまやかしである。経費削減の大部分を占めるのは,基礎年金国庫負担のための年金特別会計への繰入の2.5兆円減額である。年金特別会計の方では,国庫負担が入らないことになり,その分,積立金が減少する。そこから生じる重大な問題は2つ。
第1は,国債が発行されなくても,公的年金積立金が減るため政府全体では資産が減少している。つまり,純債務が増加しており,財政赤字が発生している。国債を発行しないことを強調することでこの事実が隠されてしまう。
第2は,復興経費を公的年金で負担することになるが,このままでは将来の世代がどこかの時点でそのつけを払わされることになるだろう。復興財源を誰が負担するのか,を議論することなく,国債を発行しないという名目だけで将来の世代が負担することを決めてしまうのは正当な政策決定だろうか。


深く共鳴する。不測の支出に対し、銀行借り入れを増やしたくないという理由で来月学校に支払わねばならない子供の給食費を流用する親が何処の世界にいるだろうか?

国債残高抑制は重要だが、財政規律の順守が最優先事項の筈である。

「世代間の公平性を確保しなければならないが、先述した若い世代のボランティア活動に対する返礼、さらに若い世代が災害後の日本経済・日本社会の復興の主体となるはずであることから、高齢世代が若年世代の活動を少しでも支援する方向性をもった貢献方法に重きを置くべきであろう。」

これにも深く共鳴する。現政権は余りに若者世代を食い物にしている。怒りすら覚える。
日本の老人は金持ちである。それは、日本の金融資産の60%以上が60才以上の世代に保有されている事実から明らかである。財務省公表資料によれば92兆円の歳出総額に対し、社会保障費は27兆円、約30%にも達する。

批判を恐れず露骨に言ってしまえば、金持ちの老人を社会保障費で手厚く遇し、それにより生じた借金を若い世代に付け回しているだけではないか? 政権交代が起こり、菅内閣に於いてこの歪な仕組みを是正すべく本来何らかの方向性が示されるべきであった。しかしながら、何も出来ていない。1次補正予算案の焙り出すものは、お粗末で破廉恥極まりない菅政権の実態、本質であると思う。

これでは、野党による内閣不信任案の提出も致し方ない。 山口 巌



よく「あちらを立てればこちらが立たず」とというトレードオフ的な事象は世の中にはたくさんありますが、そこを何とかするために権限をお金を持っているのだから、もう少しきちんと説明してもらいたい。というか、どちらにしても100%賛成論なんてないのだから、決めたことに対してきちんと理論的に説明でき、リーダーシップにより国民を導いてもらいたい。
超法規的なことが簡単にまかり通るとは想いませんが、それでも何のためのリーダーか、ということからすると、今回の対応は多少「ぬかった」感が否めません。
そんなことだから、あからさまに参与が涙ぐみながら会見し、且つ辞意表明文を公開するのです。その対応をどうするかと想っていたら「見解の相違」とか、なんとも。もう少し学習したらどうかな。だめなら辞めて責任放棄したらとも想う。がんばって続けてもダメだと想うし。

参与辞意表明内容全掲(Special Thanks NHKかぶん)

平成23年4月29日

内閣官房参与の辞任にあたって(辞意表明)

内閣官房参与 小佐古敏荘

平成23年3月16日、私、小佐古敏荘は内閣官房参与に任ぜられ、原子力災害の収束に向けての活動を当日から開始いたしました。そして災害後、一ヶ月半以上が経過し、事態収束に向けての各種対策が講じられておりますので、4月30日付けで参与としての活動も一段落させて頂きたいと考え、本日、総理へ退任の報告を行ってきたところです。
 なお、この間の内閣官房参与としての活動は、報告書「福島第一発電所事故に対する対策について」にまとめました。これらは総理他、関係の皆様方にお届け致しました。

 私の任務は「総理に情報提供や助言」を行うことでありました。政府の行っている活動と重複することを避けるため、原子力災害対策本部、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、文部科学省他の活動を逐次レビューし、それらの活動の足りざる部分、不適当と考えられる部分があれば、それに対して情報を提供し、さらに提言という形で助言を行って参りました。
 特に、原子力災害対策は「原子力プラントに係わる部分」、「環境、放射線、住民に係わる部分」に分かれますので、私、小佐古は、主として「環境、放射線、住民に係わる部分」といった『放射線防護』を中心とした部分を中心にカバーして参りました。
 ただ、プラントの状況と環境・住民への影響は相互に関連しあっておりますので、原子炉システム工学および原子力安全工学の専門家とも連携しながら活動を続けて参りました。
 さらに、全体は官邸の判断、政治家の判断とも関連するので、福山哲郎内閣官房副長官、細野豪志総理補佐官、総理から直命を受けている空本誠喜衆議院議員とも連携して参りました。

 この間、特に対応が急を要する問題が多くあり、またプラント収束および環境影響・住民広報についての必要な対策が十分には講じられていなかったことから、3月16日、原子力災害対策本部および対策統合本部の支援のための「助言チーム(座長:空本誠喜衆議院議員)」を立ち上げていただきました。まとめた「提言」は、逐次迅速に、官邸および対策本部に提出しました。それらの一部は現実の対策として実現されました。
 ただ、まだ対策が講じられていない提言もあります。とりわけ、次に述べる、「法と正義に則り行われるべきこと」、「国際常識とヒューマニズムに則りやっていただくべきこと」の点では考えていることがいくつもあります。今後、政府の対策の内のいくつかのものについては、迅速な見直しおよび正しい対策の実施がなされるよう望むところです。

1.原子力災害の対策は「法と正義」に則ってやっていただきたい

 この1ヶ月半、様々な「提言」をしてまいりましたが、その中でも、とりわけ思いますのは、「原子力災害対策も他の災害対策と同様に、原子力災害対策に関連する法律や原子力防災指針、原子力防災マニュアルにその手順、対策が定められており、それに則って進めるのが基本だ」ということです。

 しかしながら、今回の原子力災害に対して、官邸および行政機関は、そのことを軽視して、その場かぎりで「臨機応変な対応」を行い、事態収束を遅らせているように見えます。
 
 とりわけ原子力安全委員会は、原子力災害対策において、技術的な指導・助言の中核をなすべき組織ですが、法に基づく手順遂行、放射線防護の基本に基づく判断に随分欠けた所があるように見受けました。例えば、住民の放射線被ばく線量(既に被ばくしたもの、これから被曝すると予測されるもの)は、緊急時迅速放射能予測ネットワークシステム(SPEEDI)によりなされるべきものでありますが、それが法令等に定められている手順どおりに運用されていない。法令、指針等には放射能放出の線源項の決定が困難であることを前提にした定めがあるが、この手順はとられず、その計算結果は使用できる環境下にありながらきちんと活用されなかった。また、公衆の被ばくの状況もSPEEDIにより迅速に評価できるようになっているが、その結果も迅速に公表されていない。

 初期のプリュームのサブマージョンに基づく甲状腺の被ばくによる等価線量、とりわけ小児の甲状腺の等価線量については、その数値を20、30km圏の近傍のみならず、福島県全域、茨城県、栃木県、群馬県、他の関東、東北の全域にわたって、隠さず迅速に公開すべきである。さらに、文部科学省所管の日本原子力研究開発機構によるWSPEEDIシステム(数10kmから数1000kmの広域をカバーできるシステム)のデータを隠さず開示し、福島県、茨城県、栃木県、群馬県のみならず、関東、東北全域の、公衆の甲状腺等価線量、並びに実効線量を隠さず国民に開示すべきである。

 また、文部科学省においても、放射線規制室および放射線審議会における判断と指示には法手順を軽視しているのではと思わせるものがあります。例えば、放射線業務従事者の緊急時被ばくの「限度」ですが、この件は既に放射線審議会で国際放射線防護委員会(ICRP)2007年勧告の国内法令取り入れの議論が、数年間にわたり行われ、審議終了事項として本年1月末に「放射線審議会基本部会中間報告書」として取りまとめられ、500mSvあるいは1Svとすることが勧告されています。法の手順としては、この件につき見解を求められれば、そう答えるべきであるが、立地指針等にしか現れない40-50年前の考え方に基づく、250mSvの数値使用が妥当かとの経済産業大臣、文部科学大臣等の諮問に対する放射線審議会の答申として、「それで妥当」としている。ところが、福島現地での厳しい状況を反映して、今になり500mSvを限度へとの、再引き上げの議論も始まっている状況である。まさに「モグラたたき」的、場当たり的な政策決定のプロセスで官邸と行政機関がとっているように見える。放射線審議会での決定事項をふまえないこの行政上の手続き無視は、根本からただす必要があります。500mSvより低いからいい等の理由から極めて短時間にメールで審議、強引にものを決めるやり方には大きな疑問を感じます。重ねて、この種の何年も議論になった重要事項をその決定事項とは違う趣旨で、「妥当」と判断するのもおかしいと思います。放射線審議会での決定事項をまったく無視したこの決定方法は、誰がそのような方法をとりそのように決定したのかを含めて、明らかにされるべきでありましょう。この点、強く進言いたします。


2.「国際常識とヒューマニズム」に則ってやっていただきたい

 緊急時には様々な特例を設けざるを得ないし、そうすることができるわけですが、それにも国際的な常識があります。それを行政側の都合だけで国際的にも非常識な数値で強引に決めていくのはよろしくないし、そのような決定は国際的にも非難されることになります。

 今回、福島県の小学校等の校庭利用の線量基準が年間20mSvの被曝を基礎として導出、誘導され、毎時3.8μSvと決定され、文部科学省から通達が出されている。これらの学校では、通常の授業を行おうとしているわけで、その状態は、通常の放射線防護基準に近いもの(年間1mSv,特殊な例でも年間5mSv)で運用すべきで、警戒期ではあるにしても、緊急時(2,3日あるいはせいぜい1,2週間くらい)に運用すべき数値をこの時期に使用するのは、全くの間違いであります。警戒期であることを周知の上、特別な措置をとれば、数カ月間は最大、年間10mSvの使用も不可能ではないが、通常は避けるべきと考えます。年間20mSv近い被ばくをする人は、約8万4千人の原子力発電所の放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです。年間10mSvの数値も、ウラン鉱山の残土処分場の中の覆土上でも中々見ることのできない数値で(せいぜい年間数mSvです)、この数値の使用は慎重であるべきであります。

 小学校等の校庭の利用基準に対して、この年間20mSvの数値の使用には強く抗議するとともに、再度の見直しを求めます。

 また、今回の福島の原子力災害に関して国際原子力機関(IAEA)の調査団が訪日し、4回の調査報告会等が行われているが、そのまとめの報告会開催の情報は、外務省から官邸に連絡が入っていなかった。まさにこれは、国際関係軽視、IAEA軽視ではなかったかと思います。また核物質計量管理、核査察や核物質防護の観点からもIAEAと今回の事故に際して早期から、連携強化を図る必要があるが、これについて、その時点では官邸および行政機関は気付いておらず、原子力外交の機能不全ともいえる。国際常識ある原子力安全行政の復活を強く求めるものである。

以上



あぁ・・・どうするの。いったい。
別に首相が嫌いとか批判したいわけではないのですが、行動と結果が全てのリーダーがそういう意識では・・と思いつつ、とりまきも何してンの?って想いつつ、そんな記事をひとつlogします。

市民運動家首相の限界
配信元:月明飛錫

1.政治の機能不全
震災対応や先の統一地方選挙の敗北を受けて、菅首相への批判や退陣を求める動きが加速している。3月11日におこった東日本大震災から50日が経過したが、これは天災ではなく人災であるという言い方を超え、「菅災」との声まであがっている。
参考:時事ドットコム:「菅災だ」「官邸去れ」=野党が辛辣批判

政治が機能不全に陥っていることは、今回の大規模な被害に、平時の法体系では対応しきれないにもかかわらず、一ヵ月半経っても震災関連の立法が行われていなかったことからも明らかだ。
1つ例をあげよう。
1000年に1度ともいわれる大津波はあらゆるものを押し流し、船が陸に打ち上げられ、民家に自動車が乗り上げた。
現行の法律では、修理すれば使用可能な自動車や船舶を、持ち主の許可なくして撤去したり壊したりすることはできない。しかし、死者・行方不明者が2万人を超え、10万人以上が避難生活を送っているなかでは、これらの自動車や船舶の持ち主がどこにいるか、それどころか持ち主の生死すらも不明な場合がある。それにもかかわらず、持ち主の許可を得ることができないことで、これらの撤去作業が難航し、復旧・復興の大きな妨げになっている。

政府はこうした自動車や船舶の処分について、まだ議論をしている最中とのこと。
以下、「松本内閣府特命担当大臣記者会見要旨 平成23年月4日26日」より。

(問)災害廃棄物についてですけれども、自動車や船舶については、遺失物法を適用するという報道がありますけれども、いかがでしょうか。

(答)いろいろ、今、樋高政務官のところで、研究といいますか、早い時期に結論がでると思いますけれども、様々、今、議論をしているところでありまして、船舶につきましても、保険との関係とか、移動するときの保険であるとか、様々、今、やっているところでありますし、もう動き出しているところもありますから、そこに対して、私どもも、適宜、対応については、走りながら考えているという状況であります。

震災から一ヵ月半が経過したのに、あまりにも遅い対応ではないだろうか。こうした既存の法体系や規制を超えた対応こそ、政治主導で行うべきであろう。

一方でやったことといえば、場当たり的なパフォーマンスと会議の乱立、精神論的な空虚な言葉の乱発である。
権限や役割が不明確なまま節電啓発担当大臣や災害ボランティア担当の首相補佐官を任命し、「福島原発事故対策統合連絡本部」「緊急災害対策本部」「復興構想会議」など20もの対策本部・会議を乱立させた。
参考:佐藤正久オフィシャルページ
危機にあって会議を増やし、会議に出て仕事をしている気になるのは、ダメ会社の典型だ。

また原発に詳しいと自認する首相が、福島第一原発への対応を最優先と考え、震災翌日の原発視察を断行し、さまざまな指示を出したが、首相の任務は原発の専門家になることではない。同時多発的におこってしまった災害の全体像を把握し大きな方針を打ち出し、指揮命令系統を明確にして、担当者が仕事をしやすくすべきではないだろうか。

まとめると菅首相には、未曾有の大災害において、全体を俯瞰して問題を解決する意思と能力が欠けていたといえる。

2.自称市民運動家の限界
菅首相が自らの原点とする市民運動とは、既存の社会体制に対する異議申し立てをして、国家と対決する告発型の運動であるといえる。そこでは、環境保護や人権の尊重などがテーマとなり、一部の人々の利害や権利を代表する。国益や国全体としての利害調整などは考慮されず、全体に対して責任を負うことなく、「国に勝つ」ことに喝采が送られる。
そして、外部に対して情報を公開し、説明責任を果たすことも求められない。

菅氏の市民運動としての実績は、市川房枝氏の選挙活動を手伝ったこと以外にははっきりとしないのだが、かつての長崎県諫早湾干拓事業における行動には、市民運動家としての菅氏のありかたが見られるように思う。

「ムツゴロウがかわいそうだ」と自然環境保全の観点から諫早湾干拓事業に反対していたいた菅氏は、1997年4月、水門が閉められる時間に現地事務所を訪問し、テレビカメラの前で「誰の指示でやっているのか。責任者を出せ」と叫んだ。地道な反対運動ではなく、パフォーマンス重視の行動であったといえよう。

誤った政策があればそれを正し、責任を追及していくことは民主主義国家においては不可欠である。しかしそれは、あくまで国政を補完することであり、国政の代替機能にはならない。そして、菅氏の政治手腕の限界は、以下に見るように市民運動家の限界であるといえる。

1)リーダーシップのなさ
リーダーシップとは、端的にいうと決断力である。決断するためには大局的な方針が必要であり、首相としての決断には日本という国がどうあるべきかという国家観が問われることになる。しかし、市民運動家には国家観は必要ない。

2)外交不在
市民運動に国際感覚は必要ない(もっとも世界には、シーシェパードのように国を超えて活動をする団体もあるのだが、日本の市民運動ではこうした要素はないように思う)。
海水への放射線汚水放出に関して、周辺国から事前に情報提供がされていなかったと非難されたが、国としての対応について意識が欠けていたのではないだろうか。

3)責任不在、パフォーマンス重視
諫早湾干拓事業で水門が閉められる時間に現地を訪れても、事業を止められるはずがない。マスコミに取り上げられれば話題になり、自分の行動がアピールできるが、それは責任を伴わない。

4)情報開示と説明責任の意識の欠如
一部の権利の代弁者であれば、国民全体へはもちろん、他国に対しての情報開示も説明責任も意識する必要がない。

こうした思考・行動パターンがしみこんでいるのであれば、菅氏に首相としてのリーダーシップを期待することはできない。
市民運動家として国家に反対することを原点としてきた人には、国民の生命と人権を守る主体としての国家像がなく、首相の座におさまっても、何をすべきか分からないのだろう。



勿論、首相と四六時中一緒に居るわけではないので、本当のところ何をし、何を考え、何を想っているのかはわかりませんあが、残念ながら結果が全てであることから、結果論的に国民の支持を仰げない行動・言動が目に付けば、リーダーとしては失格といわれてもしかたがないかと。

ただ、肝心なのはそれを選ぶ人達を選んだのは紛れも無く国民であるという点。残念ながら、それは紛れもない事実です。ですから、国民一人一人が真面目に考えて、この難局を直視し、そして次にリーダーになるべき人をきちんと選んでくれる人達を、国民自ら選ばなければならないかと。あたりまえのことを書いてますが。

「カリフォルニアの教訓」と銘打って、行き過ぎた民主主義の危険性を書いた記事があります。

カリフォルニアの教訓 行き過ぎた民主主義の危険性
配信元:JBPRESS

カリフォルニアは世界中の有権者に警告を与えてくれている。

米カリフォルニア州はまたしても、予算に開いた大きな穴を抱え、それを埋める見込みがないまま会計年度の終わりに近づきつつある。州憲法では赤字予算が禁じられているにもかかわらずだ。

 ほかの州も経済の不振が原因で問題を抱えている。しかし、カリフォルニアは好景気の年でさえ、然るべき時期に予算を成立させられない。カリフォルニア州の信用格付けが20~30年程度で、50州の最上位クラスから最下位に転落した理由の1つがここにある。

 その多様性から、自然の美しさ、他の追随を許さないシリコンバレーやハリウッドの人材集団に至るまで、これほど恵まれた州の統治が、どうすればここまでひどい有様になるのだろうか?

 やはり、統治を行っている人を非難したくなる。非常に党派的で、普段から膠着状態にある議員は、かなり厄介な集団だ。1975~83年にも州を率いた経験がある現知事のジェリー・ブラウン氏は、(前任者たちと同様)行政機関を機能させるのに苦労している。


直接民主制の弊害

 しかし、別項の特集でも述べているように、最大の原因は直接民主制だ。カリフォルニア州の有権者が自ら選んだ議員を任期の半ばで解職するリコール、議会が採択した条例を拒否できる住民投票、そして中でも有権者が自ら規則を制定するイニシアティブといった制度だ。

 「提案13号」によって固定資産税の税率が引き下げられた1978年以降、教育から鶏舎の規制に至る様々なテーマで何百ものイニシアティブが条例として成立している。

 この市民議会とでも呼ぶべき存在が混乱を引き起こしている。イニシアティブの多くは、税額を抑えるか支出を命じるもので、予算を均衡化するのがさらに難しくなっている。

 一部のイニシアティブはあまりに杜撰で、意図に反する結果を招いている。提案13号は小さな政府という主張にもかかわらず、カリフォルニアの財政を中央集権化し、各自治体から州政府へとシフトさせる結果となった。

 住民投票にはエリートを抑え込む意図があったが、むしろ利益団体の道具と化している。ロビイストや過激主義者が資金を出して、困惑するほど複雑で、効果が曖昧な法律を成立させているのが現状だ。こうして、代議制の上に成り立つ州政府の力が衰えた。予算の70~90%の使い道が既に決まっている議会に誰が参加したいと思うだろうか?


彼らは楽園を舗装し、投票ブースを設けた

 これはカリフォルニア州にとって悲劇だったが、問題は州の境界をはるかに超えて重要な意味を持つ。米国の州の半数近く、さらには次第に多くの国で、何らかの形の直接民主制が採用されている。

 英国では5月、(投票制度の変更を巡り)何年もなかった国民投票が実施される。道を踏み外した下院議員をリコールする制度の創設も取り沙汰されている。欧州連合(EU)も超国家的な市民イニシアティブの手続きを導入したばかりだ。技術の発達で住民投票の実施が一層容易になり、欧米の有権者はかつてないほど政治家に腹を立てていることから、直接民主制が広がる可能性がある。

 それも、悪いことではないだろう。何しろ、成功モデルも存在する。スイスでは、直接民主制は地方レベルでは中世から、連邦レベルでは19世紀から採用されている。スイスでは直接民主制と代議制がうまく共存しているように見える。これはきっと単に、カリフォルニア州(明らかにスイスのモデルを借りた)が良いアイデアをうまく実行していないだけだろう?

 そうとは限らない。本誌(英エコノミスト)をはじめ、直接民主制を禁止したいと考えている者などほとんどいない。実際、住民投票が有効なケースもある。住民投票は議会の責任を問う1つの方法だ。

 カリフォルニア州でも最近、ゲリマンダリング(議員に都合の良い選挙区の改定)を制限する制度や政党によらない予備選挙がイニシアティブによって導入された。どちらも改善と言える。しかも、これらはリコールのプロセスを経て知事に選出されたアーノルド・シュワルツェネッガー氏が推し進めた対策だ。

 しかし、慎重に事を運ぶべき強い論拠がある。特に、市民が制定した法によって議会を通さずに済むようにする時には、気をつけなければならない。

 代議制と直接民主制の長所を巡る議論は古代にさかのぼる。多少単純化して言えば、古代ギリシャ人は純粋な民主制を好み(「国民による統治」。ただし実際は多くの場合、少数の執政者に最終決定権があった)、ローマ人は「公共のもの」として共和制を選んだ。共和制では、代表者が公益を勘案して妥協することができ、成果の総体に対する責任を負った。

 米国の建国の父、中でもジェームズ・マディスンとアレクサンダー・ハミルトンはローマ方式を支持した。マディスンとハミルトンは論文集「フェデラリスト」の中で、「パブリアス」という共通の匿名の下、群衆の危険な「情熱」や、「少数派」(すなわち利益団体)が民主的なプロセスを押さえる脅威について警告している。

 正しい民主主義は単なる果てしない投票の繰り返しではない。審理の仕組み、成熟した制度、合衆国憲法にあるようなチェック・アンド・バランスが必要だ。皮肉にも、カリフォルニア州が1世紀近く前に直接民主制を導入したのは、州政府が腐敗した場合の「安全弁」としてだった。このプロセスが機能しなくなってきたのは、比較的最近のことだ。

 提案13号を境に、直接民主制は安全弁であることをやめ、ほぼエンジンそのものへと変貌した。


失って初めて分かるもの

 これらは、希望と不安の両方を与えるものだ。希望は、カリフォルニア州にも自らを正せる可能性があるということだ。既に改革に向けた議論が始まっている。しかし皮肉なことに、州憲法改正会議への動きが2010年に資金不足で止まってしまったため、目下の最大の希望はイニシアティブを通じた改革にある。

 また、代議制の心臓である議会の権限と信頼性を取り戻そうという議論もある。これを実現するには、異常なほど少ない議席数を増やし、任期の制限を緩和することだ。

 さらに重要なのは、直接民主制をエンジンから安全弁に戻さなければならないということである。イニシアティブの実施はもっと難しくしなければならない。有権者が本当に理解できるよう、内容は短く、単純にすべきだ。どれくらいの資金が必要で、それをどこから調達するかを明示しなければならない。

 そして、イニシアティブが成立した場合も、議会がその内容を修正できるようにする必要がある。住民投票も同様の原則で行うとよいだろう。

 一方、不安要素は、欧米諸国が少しずつ反対の方向へと流れていっていることだ。グローバル化に対する懸念は、すなわち政府が嫌われ、ポピュリズムが台頭しているということを意味する。欧州の人々は、正気を失ったカリフォルニア州民が自らの投票によって異様な混乱を招いているのを見て陰で笑っているかもしれない。

 しかし欧州の有権者の中に、移民に反対する住民投票の誘惑に負けない人がどれくらいいるだろう? モスクの建設反対や減税はどうだろう? カリフォルニアの過ちはどこで繰り返されてもおかしくないのだ。



理系の私は、政治の仕組みそのものについて語る資格も技量もありませんが、今回の震災がそれぞれ各個において様々なことを考えるいい機会になればと想います。

そして、次にリスクの考え方について触れた記事をlogしつつ、電力の話に移ります。

決して許されない「想定外」という言い訳確率の低い災害が甚大な被害をもたらすという事実-長岡 貞男
配信元:JBPRESS

今回の大地震、津波、そして東電の福島原発の大災害は、リスク管理の重要性を我々によく認識させた。

 重要な点は、こうした巨大な地震や津波の可能性は従来知られていた点である。今回の地震はマグニチュード9と最終的に判定されたが、2004年のスマトラ沖地震は9.3であった。巨大津波の発生についても、産業技術総合研究所の活断層・地震研究センターが、869年の貞観津波など東北地方の仙台平野や石巻平野、そして福島県沿岸域の平野では約500年間隔で巨大津波が発生していることを事前に警告していた。

 それにもかかわらず、なぜ、リスクへの備えが不十分であったのか。


確率が低い事象は考慮しない方が合理的なのか?

 1つの重要な原因は、このような規模の地震・津波が来ることは数百年に1回であり、確率が小さいと認識されていたことであろう。

 滅多には起きない、確率が非常に小さい事象は考慮をしないことが、合理的な場合もある。それが合理的であるかどうかは、災害による被害の分布がどのようになっているかに依存する。

 巨大地震や津波が起きた場合、その被害が非常に大きいという特徴がある。よって、「滅多には起きない」という理由で「想定外」とすることは合理的ではない。

 地震の規模は「マグニチュード」で評価されるが、マグニチュードが1増えると地震の発生頻度はおよそ10分の1となることが知られている(2増えると100分の1)。したがって、マグニチュードが8級の地震は10年に1回程度日本で起きるとすると、マグニチュードが9級の地震は100年に1回であり、確率は大幅に小さくなる。

 しかし重要な点は、地震規模を示すマグニチュードは対数スケールであり、マグニチュードが1増えるとエネルギーは約32倍となる(2増えると32×32で1000倍にもなる)。被害は地震のエネルギーに対して比例的に大きくなると考えられるので、地震による被害(=確率×被害の程度)は、確率が低い巨大地震の被害に集中することになる。


滅多に起きないことへの対処を考えるべき場合

 大きな規模の事象は滅多に起きないが、それがインパクトの多くの部分を占めることは、事象の原因となる複数の要因が乗数的に結果に影響を及ぼす経済現象や自然現象に共通に見られる。例えば、発明の価値、油田の可採量、都市の人口規模等である。

 発明が経済的な価値をもたらすには、技術的な新規性、補完的な技術の利用の可能性、用途の広さ等の要因それぞれが必須であり、これらに関連した要因は、発明の価値にかけ算で作用する。

 全ての補完的な要因が大きくプラスであることは滅多にはない。しかし、そのまれな場合の価値は非常に大きくなる。この結果、上位10%の発明が発明全体の価値の8割以上を占めることが知られている。油田の場合も、上位から10%の油田が可採量の約7割を占めると言われている。

 このようなメカニズムを持っている事象は、事象の頻度とそのインパクトの関係がべき乗則、あるいは対数正規分布に従うことが知られている。こうした関係が成立する場合、確率が低い、滅多に起こらないということで対処を怠ってはいけない。

 地震・津波については、そのような滅多に起きないことが起きた場合にどのように対応するか、また、逆に研究開発の場合には、滅多に起きないようなブレークスルーの機会をいかに増やして実現していくかが重要なのである。


巨大津波への対策は明らかに不十分だった

 今回の福島原子力発電所の事故については、大津波に襲われた原子力発電所は他にもあるが、大事故に至っていないことが重要である。

 これには2つの要因があるようだ。

 1つは、設備や設置年が新しいかどうかである。福島第一原子力発電所と同じ場所にあったが、比較的新しい第6号機は、冷温停止した。また、東北電力の女川原子力発電所は敷地高が14メートルあり、設置場所の選択からして津波対策がなされていた。

 第2は、古い原子力発電所に追加措置がされていたかどうかである。日本原子力発電の東海第二発電所は古い設備であるが、非常用電源の浸水対策がなされており、冷温停止した(経済産業研究所の戒能一成氏の貴重な分析を参照)。

 福島第一原子力発電所の1号機は1971年3月の運転開始から約40年も経過している古い設備であり、低い敷地に設置されているが、大津波を考慮した浸水対策はされていない。

 事故直後の3月13日の会見で、東京電力の清水正孝社長は、「福島第一原子力発電所について「(今回の地震による)津波が大幅に想定を超えていた」と述べ、津波をかぶったことで非常用電源が故障したことが被災の最大の要因だったことを示唆した。非常用電源のモーターやポンプが海面に近いエリアにあり、ほぼ海水をかぶったため、非常用電源の機能を失ったという(日本経済新聞、2011年3月13日)。

 安全対策を練るのに、災害の規模を想定すること自体は問題ではないが、それが1つのシナリオに単純化されているところが大きな問題である。

 確率は小さくても巨大津波が発生し、そのことが大被害をもたらすことを考えれば、非常用電源を海面近くの施設の地下に置くことは、明らかに誤った選択であったはずだ。非常用電源だけでも、より防水度を高める工事を行うことには、それほど費用がかからなかったと考えられる。


「国が認可したから」という意識がもたらしたモラルハザード

 なぜ、このような結果になったのであろうか。

 今後の検証が重要であるが、「想定外」の津波には対処を考える必要がないという発想は、国の認可制度にも原因があるのではないか。

 つまり、「原子力発電所は全て国の基準に照らして国が認可をしており、また原子力損害賠償補償契約に関する法律によって、異常な巨大な天災地変には国が賠償責任を負う」とされていることが、1つの重要な原因だと考えられる。

 国が「安全」だと認可した以上は自分たちには責任はなく、それ以上の安全を追求する必要性がないというモラルハザードをもたらす危険性である。

 国が認可をするのは、原子力発電所は事故となれば大惨事になる危険性があるからこそであるが、それがあるために、ある種のモラルハザードをもたらしている面があるのではないか。

 規制行政は、安全かどうかの白黒の基準ではなく、最低限満たされるべき基準を示すべきである。同時に、事業者には、想定を上回る危険が生じた時にも被害を押さえることができる事前の投資を促すように、設計されるべきであろう。



リスクが一つのシナリオへ単純化されているという切なさ、国が安全と認可した=自分達に責任がない=それ以上の安全を追求する必要性がないというモラルハザード、という内容は、国の問題だけではなく、企業においても同じことが言えます。ですから、判断をする人、実施する人、それぞれがきちんと責任を持つことが重要・・・こんなの当たり前・・・で、且つ、自分の中で収拾出来ない大事であっても、それを乗り越えられる人が、それに見合った職務につくことが重要ですね。今更ながら「適材適所」と「組織の最適化」というシンプルワードが浮かんでくるところ辺り、情けない気がしています。

少しちがった観点のこういう記事もあります。
どこを見据えるか、によって、受け取り方も異なる内容だと自分は想っていますが、昨今の東電社員らしき人のつぶやき騒動の様に、局部的か、それとも全体を見たときにどうするか、ということにおいては、先ずは議論の土台をあわせないと一生かみ合わないまま進んでしまう気がします。

ジャーナリスト・東谷暁 東電叩きによる「人災」
配信元:産経ニュース

 もういいかげんに「東電叩(たた)き」をやめてはどうか。たしかに、今回の福島第1原発事故については東京電力にも責任があるだろう。しかし、そのことといま蔓延(まんえん)している陰湿な東電叩きとはほとんど関係がない。

 まず、東電の「想定外」発言を批判して何から何まで「人災」だと言うのは、恐怖に煽(あお)られた短絡にすぎない。この世の危険には確率計算できるリスクと、計算できない不確実性があって、リスクについて東電はかなりの程度まで想定していた。

 最終的に今回の事故の原因となった非常用ディーゼル発電機不起動の確率は1000分の1だったが、東電はこれを2台並列に設置して100万分の1の確率にまで低下させていた。しかも、非常用ディーゼル発電機は頑丈で津波にも拘(かか)わらず一旦は起動したが、この非常用ディーゼル発電機のサブ冷却系が津波にやられていたためオーバーヒートして途中で停(と)まったとの説は有力である。

 なかには、巨大な津波が来ることは分かっていたのに、低い防潮堤しかなかったため事故が起こったのだから、東電が対策を怠ったことになるという人もいる。しかし、これまで14メートルを超えるような津波は三陸海岸のものであって、福島浜通りに来たという記録はない。また、最近おずおずと発言を始めた地震予知学者たちも、口を揃(そろ)えてマグニチュード9は想定していなかったという。それでどうして東電がマグニチュード9によって起こる巨大津波を想定できるのだろうか。 そもそも、たとえ東電が巨大津波を想定していたとしても、できる対策とできない対策がある。もし想定できることはすべて予防策の対象とすべきなら、岩手、宮城、福島3県の海岸に、巨大防潮堤を建設しなかった県および政府は、あれほど多くの被災者を、最初から見捨てていたことになるのではないのか。

 私が東電叩きをやめろというのは、それが私たちにとって損だからでもある。東電叩きには、東電に責任があるから政府は援助をするなとか、東電を解体しろという主張すらある。しかし、これこそ、私たちに新たなリスクを負わせることになるだろう。

 これまでも高度な技術をもった事業体を解体したさいには、巨大なリスクが生まれた。国鉄解体では組織内の技術が守られたかに見えたが、JR西日本では制御技術と技術者集団の継承性が損なわれて、福知山線事故という悲劇を生み出した。

 また、JALについてはいま給与体系や親方日の丸体質ばかりが論じられるが、最終的に利用者の信用を失ったのは多発した事故だった。この場合も、半官半民から完全な民間企業への変身が強調されるあまり、整備という航空業のコアを外注してしまうことで、組織内に蓄積された安全技術が流出したからである。

 原発という技術は、現代における最先端の技術の塊のようなものであり、ことに安全を確保するための制御技術は、設計者と使用者との間の連携が失われれば機能が低下してしまう。しかも、制御技術は組織そのものによって維持されている。これを東電叩きに乗じた怪しげな扇動によって解体してしまえば、新たな事故を招来しないともかぎらない。そうなってしまえば、今度こそ、東電叩きによる「人災」ということになるだろう。(ひがしたに さとし)



想定できなかったこと、想定できたけど費用対効果でやらなかったこと、責任を追及すること、責任追及よりも先ず実を取ること、全体像としてどうするかということ、局部的にコントロールできない人をどうするかということ、その辺が入り乱れて議論に突入すると訳がわからなくなりますね・・・

次に今回の対応を「作戦行動的見地」から綴った記事があり、非常に良い内容でlogしました。
まさにリスクヘッジとか、結果論的にこうだった、ではなく、作戦は常に事前に準備され、速やかに遂行され、そしてフィードバックされてブラッシュアップされる。PDCAがまわっていて、それが大きな戦略レベルから戦術、戦闘とそれぞれが意識的・無意識的に相関しつつ遂行されていく。戦略の上位には政策があるはずなのですが・・・

「作戦」の観点から見た「東日本大震災」への対応 菅 博敏
配信元:JBPRESS

2011年3月11日14時46分、500年に1度とも言われる巨大地震が東北・関東地域を襲った。「東日本大震災」の発災である。その直後、20メートルとも30メートルとも言われる大津波が太平洋沿岸を襲い、3万人に近い尊い人命と家屋・港湾・田畑等を跡形もなく破壊したのである。

 今回の地震は時間の経過とともに、その影響の大きさを痛感させられる。それは今までに経験したことのない複合災害だからである。
 第1に、マグニチュード9(M9)というエネルギーを持った地震、第2に想像を超えた津波、第3に福島第一原子力発電所の事故、第4に青森から茨城に至る広域、さらに追加するとすれば地方自治体そのものが大きな被害を受けて機能不全に陥ったことである。
 さらに政治体制について見てみると、平成7(1995)年の阪神・淡路大震災の時は村山富市政権であり、今回は青息吐息の菅直人政権の時である。日本最大の国難の時に弱体政権とは、日本国民にとって真に国難である。
 今回の地震から色々な教訓を得ることができる。第1に政府・地方自治体・企業等の危機管理体制の欠如である。危機とは、自然災害・人為災害等の災害、60年安保・70年安保改定の時のような治安、そして最大のものは国家防衛と極めて範囲が広い。
 危機への対応は、まず危機的な状況を作らないことであり、未然に防止できるようにあらゆる手段を駆使するとともに、保険がかけられるものはかけておくことが重要である。
 次に最悪な事態を想定して対策を確立しておくことである。最後に危機が生起した場合は迅速・的確に対処し、被害の拡大を阻止(初動対処が重要)することである。第2は福島第一原発事故発生後の「対応のまずさ」である。
 危機管理については別の機会に委ねることとし、本稿においては軍事行動における「作戦」の観点から特に初動対処は良かったのか、指揮官の位置は如何にあるべきか、緊急事態における組織はいかにあるべきか、指揮官の決心とは、原発事故対応作戦は主動的に行われたのか、について考察することにする。

1. 初動対処は良かったのか
 1995年に起きた阪神・淡路大震災の時は、自衛隊の初動対処が悪いとマスコミから随分報道された。実際のところ、自治体との平素からの連携不十分、要請の遅れ、部隊の進出経路の渋滞などから少し遅延したことは事実のようであるが、初動が極端に遅れたということはない。
 そしてこの震災を契機に、教訓を生かして改革が行われたのである。法体系の整備については、派遣要請の手続きを簡素化し、市町村長にも要請の権限を追加、さらには災害派遣中の自衛官に対し、活動の円滑化を図るため新たな権限が付与された。自衛隊の運用の一元化については、それまでの大臣の指揮は陸・海・空各幕僚長を通じて行い、大臣の命令は各幕僚長が執行することになっていたが、改革により統合幕僚長が一元的に大臣を補佐し命令を執行することにした。このことにより省としての迅速な意思決定、総合的・効果的な部隊運用が可能となったのである。自衛隊の初動態勢については、陸上自衛隊は、常時全国規模で人員約2700人、車両410両、航空機28機の態勢を、海上自衛隊は、各地方総監部に艦艇1隻が2時間を基準に、哨戒機が昼間は15分から1時間、夜間は1~2時間を基準に待機する態勢を、航空自衛隊は、各航空基地において輸送機や救難機が昼間は15分~1時間、夜間は2時間を基準に待機する態勢を確立した。各地方自治体においても、防災計画の策定、防災訓練の実施、自衛隊との連携の強化などのため、現在では100を超える自治体が自衛隊退職者を防災管理官として採用している。それでは東日本大震災における初動対処はうまくいったのであろうか?
 地震・津波被害に対する人命救助については、極めて迅速・的確に行動できたものと考えられる。発災は3月11日14時46分、防衛省災害対策本部の設置は14時50分、岩手県知事の派遣要請は14時52分、最も遅い福島県知事の要請でも16時47分である。自衛隊は発災直後からヘリや車による情報収集を行い、自主的に派遣の準備にとりかかっていた。18時00分に大規模震災災害派遣命令が下達され出動、14日の時点では陸上自衛隊3万6000人、海・空自衛隊3万人、ヘリ96機、艦艇58隻という大規模部隊が東北・関東地区に展開したのである。4月18日時点における人命救助が1万4937人に及んでいることから判断しても、初動の活躍ぶりを窺うことができる。

 一方、福島原発事故への初動対処はどうであったのか。未経験のこととはいえ失敗したとしか言いようがない。

 第1に、水素爆発の1つの原因と言われているベントに関する混乱と遅れである。枝野幸男官房長官は、3月12日午前1時30分に東電に対し1号機のベントを指示したと、のちの会見で述べているが、午前2時20分時点における原子力安全・保安院の会見ではベントは考えていないと述べている。さらに福島原発の現場では1号機なのか2号機なのか混乱したうえ、ベントの作業を開始したのは視察に訪れていた菅首相が現場を離れた10時17分以降である。その結果、15時36分、1号機は水素爆発を起こしたのである。

 第2に、1号機原子炉内への海水注入の遅れである。18時00分には政府から海水注入の指示が出ているにもかかわらず、東電はあくまでも真水の注入にこだわり、海水の注入に踏み切ったのは20時20分以降である。その結果、燃料棒の溶融を加速させてしまったのである。

 第3には、電源車に関するトラブルである。23時25分の原子力安全・保安院の会見によれば、電源車さえ到着すれば冷却システムは回復するものと考えていたようである。しかしその後電源車は到着したものの、電源の不一致やケーブルの欠損等で十分に対応することができなかったのである。その後も対応は後手後手に回り、第3号機の水素爆発、プールの燃料棒の損傷、汚染水の流出等を招き、初動対処に失敗したと言わざるを得ない。


2. 指揮官の位置はいかにあるべきか

 作戦における指揮官の位置は重要である。指揮官といっても部隊の大小・役割により、さらに状況の変化に応じてその位置は異なってくる。一言で言えば、状況に照らして最も指揮容易な位置でなければならない。本震災発災以降における菅首相の位置は適切であったのか?
 12日早朝首相は、自衛隊のヘリで太平洋岸の被害状況を上空から視察するとともに、福島原発に立ち寄りその状況を確認した。この行動については賛否両論がある。最も重要な時に官邸を留守にすることの評価の違いである。筆者は、総指揮官が自分の目で現場の状況を確認することは極めて重要であると思う。しかしそれはあくまでも状況の確認であるべきであり、現場における陣頭指揮であってはならない。現場は現地指揮官に任せ首相が考えることは、まずは国力を結集して人命救助と被災者の生活支援をいかに行うか、そして原発事故の早期収束である。
 報道によれば、福島原発の現場や東電と政府との統合対策本部において、声を荒げて詰め寄る場面があったようである。「深沈厚重」という言葉があるが、指揮官の究極の品格とされている。どんな状況にあっても、深い水の中にどっしりと沈んでいる石のように泰然自若として真に頼りになる人物のことである。菅首相の言動を見るにつけ、一国の宰相としての力量に寂しさを感じざるを得ない。

3. 緊急事態における組織はいかにあるべきか

 政府は発災直後から本部・会議を乱立し、挙句の果てに学者ばかりの内閣官房参与を15人も採用、国民に震災に対する積極的な姿勢を見せつけたが、結節が増えただけである。原発事故における指揮(対応)も極めて不明瞭である。官房長官、原子力安全・保安院、東電の指揮関係や業務の役割分担は一体どのようになっているのか、会見を聞いても統一性に欠けバラバラである。
 さらに言えば、災害対策本部と東電との統合対策本部の関係、経産省の原子力安全・保安院と内閣府の原子力安全委員会との関係等、組織が有機的に機能しているとは到底考えられない。国家の緊急事態の時こそ、災害対策本部長である首相が一元指揮可能なシンプルな組織が必要である。今回の場合、中央組織としては官邸にある大規模災害対策本部の中を地震津波対策本部と福島原発対策本部の2つに大別して、その下に各省庁横断の連絡協議会を設置し、具体的な調整・審議はその場で行えばいい。東電はその組織の中に取り込み、必要があれば地方自治体の代表を加えればこと足りる。既存の行政組織をフルに活用すべきである。


4. 指揮官の決心とは
 指揮官の最大の仕事は決心であり、決心は指揮官固有の権限でもある。また指揮官は孤独であると言われているが、それは決心をしてその結果に責任を伴うからである。指揮官の代役はいないのである。決心で一番難しいことは、「いつ」「何を」決めるかということである。決めなくてもよいものを早めに決めてしまったり、逆に決めなければいけないものをいつまでも決めなかったりすることは、厳に戒めなければならない。指揮官にはタイムリーな決心が求められているのである。
 それでは、福島原発事故における「廃炉」に関する決心は適切であったのか。ベントの実施や原子炉内への海水の注入等に関する決心は当然あったものと思うが、最大の決心はいつの時点でどのような状況になった時に「廃炉」を決心するかである。結果論とのご批判を覚悟の上あえて申し上げれば、「廃炉」の決心の遅れは致命的であると言わざるを得ない。東電がその決心をして公表したのは3月31日になってからである。もう少し早く決心し対策を講じれば、現在のような最悪な事態を回避できたのではないか、残念でならない。「廃炉」の決心時期としては、津波に襲われ施設が5メートル水没した事故当初の時点、次に1号機に海水を注入した時点等が考えられるが、その適否については改めて検証すべきものと考える。


5. 原発事故対応は主動的に行われたのか
 作戦において最も戒めるべき作戦は、何の理念も目的もないその場しのぎの作戦、生起する事象に対処するだけの作戦、敵の行動に追随するだけの作戦であり、このような作戦を「状況戦術」と言う。作戦に当たっては、まず作戦目的、作戦目標を確立し、それを達成するための道筋を細部にわたり計画して、終始主動的に行動しなければならない。
 事故発生以降、どのようにして収束させるのか、その計画すらなく、その場しのぎのいわゆる「状況戦術」に陥ったのである。さらに、3月31日「廃炉」を決心したにもかかわらず、工程表が提示されたのは4月17日になってからである。
 しかもその工程表は極めて大まかなものであり、細部の計画は策定されているのか疑問を持たざるを得ない。
 原発事故の影響の大きさを考える時、1日も早い収束を期待したい。


おわりに
 東日本大震災について「想定外」という言い訳をよく耳にする。想定外のことを想定して万全を期することが危機管理であるが、この言葉は災害には通用しても「国家防衛」には通用しない。国が潰れてしまうからである。
 そんなことは起こるはずがない、と思っていた事が今回起こったのである。予算枠ありきで、その枠の中に見合った想定を設定することは防衛に関しては許されないのである。
 近年、防衛費は任務の拡大とは裏腹に減少の一途を辿っているが、今回の大震災の危機管理を良き教訓にして、去年策定された「防衛大綱」を根本から見直すことが急務である。
 また陸上自衛隊の役割は、国家防衛、災害派遣を問わず国民の生命・財産を守る最後の砦であり、人的戦闘力においてもその重要性が再認識されたのである。
 日本は元寇・ペリー来航・日露戦争・敗戦という4大国難を、卓越した国家観・歴史観、和の精神、武士道精神をもって見事に克服してきた。戦後最大の国難とも言うべき今回の震災も、日本人の底力で必ず乗り切れるものと確信する。

 最後に、不幸にして命を落とされた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、被災地の早期復興と福島原発の早期収束を重ねて願うものである。



迫力のある内容。有事とは何も国家レベルの話だけではありません。こういう記事に触れられるのも、不謹慎ながら今回の震災が機会となっていることも事実です。

さて、電力についてでしたが、少し話題がそれましたので戻します。
客観的データに基づいた下記の様な記事があります。

原子力で命を守りたい
配信元:金融日記

火力や水力と比べて原子力ははるかに人命の犠牲が少ない発電方法で、そのことはエネルギー政策担当者の間では常識なんですけど、知らない人が意外と多いようなので今日は各発電方法でどれぐらいの人が死ぬのかを簡単に計算したいと思います。実は原子力は、風力やソーラーよりも死ななければいけない人の数が少ないんです。

その前に、世界のエネルギー源の内訳を見てみましょう。IEA(International Energy Agency)によると、全世界で1年間で消費されるエネルギーは約14万テラ・ワット・アワー(TWh)です。その内、化石燃料は11万TWhを超えて、84%を占めます。石油がトップで全エネルギー消費の35%にもなります。なるほど世界は石油の利権を争って戦争までするわけです。原子力は現在のところ約6%です。

さて、それぞれのエネルギー源がどれぐらいの犠牲者の上に成り立っているのか計算してみましょう。石炭などは採掘でおびただしい数の人が死にます。たとえば、中国では毎年数千人が石炭の採掘で死ぬようです。メキシコ湾の石油流出事故を見ても、石油もかなり危険なことがわかります。当然ですが、天然ガスの採掘作業も危険です。また石油をめぐる戦争でもたくさんの人が死にます。しかし、驚くことかもしれませんが、以上のような犠牲者の数は計算しなくてもいいんです。なぜかというと、大気汚染で世界中で300万人以上の人が毎年死ぬからです。そして大気汚染のほとんどは化石燃料を燃やすことによって起こります。中国の炭鉱夫の数千人や、戦争で死ぬ人は、大気汚染での死者数に比べれば無視できるほど小さい数だからです。

ざっくりと化石燃料を1TWh使うと何人死ぬのか計算してみましょう。300万人を11.6万TWhで割ると、約25人になります。化石燃料でも、石炭が圧倒的に危険で、次いで石油、そして一番安全なのが天然ガスなのですが、ここではひと括りに化石燃料としておきましょう。石炭は危険ですが、もっとも安価なエネルギー源でもあるので、世界の発電所で広く使われています。

石油産業や自動車産業は非常に強い政治力を持っているので、あまり大気汚染のことがマスコミ等で語られることはありませんが、健康被害の明確な科学的証拠がほとんどない低放射線と違い、大気汚染の人体への影響は明確です。たとえば中国では石炭火力で80%ほど発電していて、毎年50万人ほどが亡くなるといわれています。また石炭というのは放射性物質をかなり出します。福島原発の事故のあと、外資系金融業界では多くの従業員が香港オフィスに一時退避しましたが、原発事故の後に上昇した東京の大気放射線量は毎時0.07マイクロ・シーベルトですが、香港は普段から毎時0.14マイクロ・シーベルトです。これは中国大陸の石炭火力発電所の影響だといわれています。

下の図(略)は、大気汚染の研究で非常に有名になった論文のグラフですが、化石燃料を燃やしてできる二酸化硫黄の濃度と死者数が非常にきれいに相関しています。この論文が書かれた当時は、大気汚染によってロンドンでは数千人が毎月死亡していたようです。日本でも四日市ぜんそくなどは有名ですね。そして大事なことは、そういった有名な公害だけでなく、今でも多くの方が毎年亡くなっているということです。

次に原子力の死亡者数を考えてみましょう。過去の原子力発電の事故で多数の死者が出たのはチェルノブイリだけです。福島原発の事故でも統計的には多少の人が将来癌で亡くなるかもしれません。東海村の臨界事故など世界の核燃料施設で死者がポツポツ出ていますが、これらは数が少なすぎて今回の計算では無視できるほど小さいでしょう。チェルノブイリ原発事故では、当時WHOとIAEAの調査で将来4000人ほどの人が癌で亡くなるだろうと予想されました。しかし20年後のWHOの再調査では「それよりはるかに少ない人しか死ななかった」と報告しています。

また、ウランの採掘でどれだけたくさんの人が死ぬのか見積もらなければいけません。ウランというのは石炭などの採掘と違って、人が掘らずにISL法といってポンプで汲み上げるだけなので、ほとんど人が死にません。また核燃料は石炭などの化学的な燃料と違ってエネルギー密度が桁外れなので、そもそも掘り出す量が石炭の200分の1程度ですみます。よってウランの採掘の死者数というのは非常に少ないです。

石炭の採掘では毎年1万人ぐらい死ぬといわれているので、ここはウンと多めに見積もって、ウランの採掘でも被曝による癌などの影響で毎年100人ぐらい死ぬとしましょう。チェルノブイリもウンと多めに見積もって1万人ぐらい死んだとしましょう。原発の歴史はすでに50年ぐらいあるので、1年間に直すと200人ぐらいです。すると原子力は採掘と事故で毎年約300人の人が死ぬことになります。これを1TWh当たりにすると、300人÷8,300TWh=0.04人になります。これは相当に多めに見積もった数字です。

石油も石炭も天然ガスも、もちろんプラントの事故によって亡くなる方もいるのですが、原子力のように計算に含めませんでした。なぜ含めなかったかというと、大気汚染の被害者が多すぎるので、プラント事故や採掘作業の事故による死者数は計算上は無視できるほど小さくなるからです。ところが原子力は、事故が起こらなければ死者がでないので、事故の死者数や採掘による死者数を注意深く見積もる必要があるのです。

水力や風力や、いま注目を集めているソーラーはどうでしょうか。水力は工事も危険ですが、決壊事故で時に膨大な数の人がなくなります。1975年の板橋・石漫灘ダム決壊では17万人ほどの人が犠牲になりました。エネルギー関連の事故の死者数のランキングでは、ダムの事故が上位を独占しています。家の近くに発電所が建設されるとしたら、原発よりダムの方に反対したほうがいいかと思います。

風力やソーラーはかなり優秀です。風力発電は事故での死者数はほぼゼロと考えていいでしょう。しかし鉄とコンクリートを使うので、これらの材料を生産するための犠牲者を考えないといけません。原発も、鉄やコンクリートを使うし工事でも事故があると思いますが、エネルギー密度が風力に比べて桁外れに高いので、1TWh発電するのに必要な工事の数が桁外れに少なく、工事に伴う死者数は原発では無視できるほど小さくなるのです。また、原発の工事の死者数はチェルノブイリの犠牲者の数に比べて計算上無視できるほど小さいと考えても大丈夫でしょう。

ソーラーは風力よりやや危険です。というのも屋根に取り付ける時に転落事故が起こるからです。工事現場での死因の1位が転落事故です。ソーラーの死者数は転落事故の発生頻度から推計できます。ソーラーの材料のシリコンは採掘に危険が伴わないので、この分はゼロと考えても大丈夫でしょう。ちなみに全エネルギーのうち、風力の占める割合は1%程度で、ソーラーの占める割合は0.1%未満です。

以上のようなことを計算している研究者の方がいて、ここではそれらの数字を使いましょう。風力は約0.15人/TWh、ソーラーは約0.5人/TWh程度です。

(グラフ略)こうやって見ると、原子力は化石燃料に比べて圧倒的に犠牲者数が少ないですね。僕自身は、割とナイーブに人の命は何よりも重いと考えています。飛行機も電車も、確かに動かせば人が死にますが、僕はそれは正当化できると思います。なぜならば飛行機や電車による経済的な発展により救われる命は、事故の犠牲者の数に比べてはるかに多いと思うからです。ひとり当たりのGDPと平均寿命には強い正の相関があります。テロリストと交渉しないというのも理解できます。テロリストの要求を呑んで、その場で人質が解放されたとしても、それでテロリストが増長すればさらに多くの人が犠牲になると思うからです。個人的には、自動車ぐらいになってくると、交通事故や大気汚染による死亡者数の多さが、経済的な便益を上回ってくるように感じています。だから自家用車は禁止した方がいいと思っています。人の命の観点から、僕自身は原子力はかなり理想的なエネルギーだと思っています。そして化石燃料は最悪だと思っています。

実は、今までの計算では、CO2の排出による将来の気候変動のリスクが全く考慮されていません。長期的に見たときの化石燃料の危険さは、これまでの計算をはるかに上回る可能性があるのです。

しかし世の中には人の命を軽んじる方が割とたくさんいます。たとえば東日本大震災で多くの発電所が被災してしまっため、このままではこの夏の電力供給が足りません。そうすると熱中症や、病院での停電などでかなり多くの方が死亡してしまうことが予想できます。実際に、3月の計画停電では、自家発電機による一酸化炭素中毒で数人の方が亡くなりました。ところが反核運動家の方々は、柏崎の定期点検中の原発の再稼働に執拗に反対しているようです。なるほど確かに熱中症で亡くなる方は老人のような弱い方が多いので、社会保障費が膨れ上がっている日本の財政を立て直すには経済的な合理性もあります。反核運動家の方はそこを狙っているのでしょう。

また風力やソーラーは、過去20年間ほどあれだけ世界中から莫大な補助金が注がれたにも関わらず、現在世界のエネルギー供給の1%ほどしかありません。風力やソーラーというのは、いわば補助金ビジネスなので、福島原発の事故に乗じて原発の再稼働を阻止すれば、より多くの補助金が引き出せるかもしれません。国が配れる補助金の総額は一定なので、風力やソーラーに回る補助金は、他の分野のお金が削られているのです。原発の再稼働ができなければ、増えるのは風力やソーラーではありません。増えるのは化石燃料の消費です。つまりもっと人が死ぬのです。

僕は、風力やソーラーのような再生可能エネルギーの研究開発や個人での投資は大いにやればいいと思っています。しかしより多くの補助金を引き出すために、原発を止めて、結果的に多くの人を殺すことには賛成しかねます。確かにビジネスは非情です。僕には想像もつかないことですが、政治と深く関わる石油産業や通信産業のような巨額の利権が動く世界では、それが合法的なら―時には非合法でも―多くの人が死ぬようなこともやらないといけないのかもしれません。それぐらいの冷酷さがないと、このような業界では偉くなれないのかもしれませんね。人間とは業の深い生き物です。



ツイッターでもフォローさせて頂いており、いつもツイートを拝見させて頂いています。コメント欄が辛辣ですね・・・表現方法にもよるところがあるのだと思いますが、客観的な数字で議論するとこうなるとうことは事実としてあります。ただしその数字自体がもしかしたら著者の知らない別の事実がある場合もあるでしょうし、そのときはそれを修正していけばいい。メジャーマスメディアではないのですから。また重要な点として、感情論は別での議論にしないといけませんね。定性的な部分と定量的な部分とは必ずしも一致しませんし。
数字は数字。操作できるといっても、それは見せ方の問題で、少なくとも切り取った断面は真ですから、やはり議論の土台をあわせないとかみ合わないまま進みます。こういう考え方もあるということを事実として認めつつ、反論があるならデータで示し、少しづつでも土台をあわせていくことが必要だと痛感する、非常に難易度の高い議題です・・

原発に関しては、JBPRESSで英フィナンシャルタイムズ紙の記事を取り上げています。

社説:今こそ原子力の時代を復活させるべきだ
配信元:JBPRESS


前略

原子力がない世界は安全か?

 実際のところ、原子力のない世界は安全性が低くなる。

 原子力は現在、世界の発電量の14%を占めており、これを化石燃料や再生可能エネルギーで代替することは当面できない。強行すれば、エネルギー市場が深刻な不安定性や不足に見舞われる恐れがある。要するに、エネルギー安全保障には原子力を含む多様なエネルギー源が必要なのだ。

 こと安全性については、原子力は別の基準で判断することが避けられない。広島への原爆投下で原子力の時代が始まって以来、人々は核分裂の破壊的な威力と、姿も見せず音も立てずに忍び寄ってくる放射能汚染の危険性の両方を懸念してきた。

 しかし、原子力の時代が始まってからの原子力エネルギーによる死傷者数(鉱石の採掘や燃料精製の現場での事故から、発電所からの放射能汚染によるものまでを含めた数)は、石炭や石油、天然ガスの燃焼による犠牲者数よりケタ違いに少ない。炭素燃料がもたらす気候変動という、論争の的になっている2次的影響を無視した場合でもそうなのだ。

 政治家は、原子力に対する国民の不安を尊重しなければならない。チェルノブイリがもたらした長期的な放射性降下物には、恐ろしいものがある。現地から2000キロ離れた英国の一部地域では今も、農家が自由にヒツジを移動させられない。

 そして悲しいかな、福島第一原発の数キロ圏内に住む人々は、今後何年も普通の生活に戻れないかもしれない。

 このため、世界各国の政府が福島の事故に対応し、原発増設計画を一時停止し、既存の原子炉の安全性を点検することにしたのは正しかった。

 ただし、巨大地震と津波という特殊な状況が欧州北部に当てはまる可能性が低いことを考えると、原発7基の一時停止を命じたドイツは行き過ぎだった。

 こうした点検は、形ばかりのジェスチャーではなく、福島で起きたことを踏まえて本当に安全性を評価する試みでなければならないが、それと同じくらい重要なのは、政治家たちがエネルギー政策について難しいが不可欠な判断を下すのを避けられるよう点検を不必要に長引かせることがあってはならない、ということだ。

 現在の原子力の嘆かわしい特徴は、大半の発電設備が古いことだ。これは1979年のスリーマイル島の事故に続くチェルノブイリの事故で、新規の承認と建設が何年も凍結されたためだ。世界の原発の大多数は、20世紀半ばの防衛産業で生まれた設計に基づき20年以上前に建設されたものだ。

 アレバの欧州加圧水型炉(EPR)やウェスティングハウスの軽水炉AP1000などの今の「第3世代」の設計は、受動冷却システムなどの安全装置を備えている。こうした装置があれば、津波の後に福島第一原発を破壊した深刻な過熱をほぼ確実に防げたはずだ。

福島の事故で原子力開発を凍結させてはならない

 しかし、こうした設計は完璧とはほど遠く、将来、より優れた原子炉(例えば、ウラン燃料ではなくトリウム燃料を使う原子炉や、地下深部で稼働する原子炉など)を開発するためにはもっと研究が必要だ。

 そして、言うまでもなく、原子炉の安全性以外にも対処すべき問題がある。特に大事なのは、放射性廃棄物の長期的な貯蔵や処分だ。

 チェルノブイリは過去四半世紀にわたって原子力の開発を凍結させた。もし福島が今後25年間にわたって、これと同じくらい効果的に原子力の開発を凍結させるようなら、世界にひどい遺産を残したことになる。

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また、原子力の時代は終わった・・・原発への信頼が失われ、新規原発建設は無理、代替エネルギーを探さねばという内容とのことですが・・・

原子力の時代は終わった - 『日本復興計画』 池田 信夫
配信元:アゴラ


前略

著者は日立の原子力技術者だったので、その工学的な構造についてのコメントは的確だ。今回の事故は原発の危険性を証明したように見えるが、仔細に見ると逆である。原発事故でもっとも恐いのは、チェルノブイリのように核燃料が暴走して原子炉が破壊される事態だが、40年以上たって老朽化した福島第一でも、運転は正常に止まった。

ECCS(緊急炉心冷却装置)が止まるところまでは想定内だったが、予備電源がすべて津波をかぶってだめになり、さらに電源車の電圧が違う(福島第一はGE製で440V)ために使えなかった。これは福島第二のように予備電源を原子炉建屋に入れておけば防げた単純な設計ミスであり、原発一般の問題とはわけて考えるべきだ。

地震と津波と原発という3つの条件が重なるのは、日本以外では(断層近くの海岸に立地している)カリフォルニアのサンオノフレ原発しかないという。今回の事故は、およそ考えられる最悪の偶然が重なったので、これ以上の事故が世界の他の場所で起こることは考えられない。しかも放射線の被曝による死傷者は出ていない。事故調査委員会が原因を分析して世界に発表すれば、誤解は解けるだろう。

しかし著者は、日本では「原子力の時代は終わった」という。東電のお粗末な危機管理で、原発への信頼が失われてしまったからだ。今後しばらく原発の新規立地は不可能であり、数兆円にのぼる損害賠償のリスクを民間企業が負うのも無理だ。原発の穴を化石燃料などで埋めることは容易ではなく、コスト上昇は避けられない。スマート・グリッドなどの新技術によって、徹底したエネルギー節約を行なうしかない。

後略



最後に「世界と日本のエネルギー事情のリンク」、
そして「脱」とか「推進」の二元論ではない、という記事をlogします。

世界と日本のエネルギー事情

電気は使いやすいエネルギーとして、毎年着実にその消費量 は伸びています。電力のエネルギー源をどう確保してまかなっていくかは、日本だけでなくどこの国にとっても重要な課題です。石炭火力、石油火力、ガス火力、原子力、水力、風力、太陽光…など、電力を得るにはさまざまな方法がありますが、各国の資源の有無、自然条件、経済やエネルギー政策など、それぞれのお国事情が反映されています。 → 続きは上記リンクから



「脱原発」vs「原発推進」の二元論を超えた東電問題の日本のためになる議論の仕方
配信元:ダイヤモンドオンライン

 福島第一原発事故の損害賠償(補償)のための政府の支援策(新機構の設立)は、連休前に閣議決定される予定でしたが、政府内での調整がつかず連休明けまで延期となったようです。それ自体は良かったですが、しかしやはり東京電力をめぐる議論はどうも偏っているとしか思えません。

東電を甘やかすな

 偏っていると思う第一のポイントは、政府の支援策は東電を甘やかしているということです。

 先週このコーナーでも書いたように、民間企業が事故を起こしたのだし、原子力損害賠償法も、原発事故が原因で発生した損害の賠償の責任を無限責任として電力会社に課しているのですから、東電が一義的に責任を負うことは当然です。この点については枝野官房長官も海江田経産大臣も明言しています。

 となると、東電がまずすべきは、徹底的なリストラを通じて損害賠償の原資を自らで捻出する努力をすることではないでしょうか。

 ところが、発表されたリストラ策は、役員の年間報酬の50%削減、社員の給与の2割削減、新規採用の見送りなど、JALのリストラよりよっぽど甘い内容でした。被害の規模を考えれば、例えば役員報酬は全額返納が当然です。幸い、海江田経産大臣が今のリストラ策では不十分と発言しましたので、ある程度の深堀りは行なわれるでしょうが、それだけで十分でしょうか。

 例えば、東電の2010年3月時点での総資産を見ると、資本剰余金と利益剰余金で約2兆5千億円もの内部留保があります。原子力事業のための引当金も約1兆8千億円あり、経産大臣の許可を得れば賠償に転用が可能となります。

 そうした東電の自助努力が不十分な中で救済策が決定・実行されたら、いくら「東電が無限の責任を負う」「国費負担はない」と関係者が喧伝しても、結局は電力料金の値上げという形で国民が多くを負担することになります。

 ついでに言えば、政府内には莫大な“原子力埋蔵金”(原子力関連の団体の積立金と予算)もあり、本来はこれらも損害賠償の原資として活用すべきです。そうした努力もせず、なんでもツケは国民に回そうという安易な発想は、政府のムダを十分に切らない中で増税して復興財源を賄おうというのとまったく同じです。


今の電力供給体制ありきの議論はおかしい

 もう一つ偏っていると思うのは、関係者の議論や発言を聞いていて、東北の復旧・復興に関する議論では“単に震災前の姿を再現するのではなく、ゼロから新しい理想の東北の姿を描くべき”といった趣旨の正論がよく聞かれますが、将来の電力供給に関しては、基本的には震災前の姿の延長、これまでの電力供給体制の継続が暗黙の前提になっているということです。

 ちなみに、日本の電力供給体制の特徴は、一社による発送電一体型での地域独占と、東日本と西日本で異なる周波数です。大口需要家に対しては多少の規制緩和が行なわれ、西日本と東日本の間では多少の電力融通が可能になっていますが、それらの措置は、あくまで一社による地域独占という供給体制を補完する措置に過ぎません。

 そして、政府も電力産業も、それを変える気は今のところ毛頭ないようです。だからこそ、例えば電力不足への対応では節電ばかりが声高に叫ばれ、電力融通の拡大は補正予算で措置されているものの、調査費のみで、補完措置の規模を少し大きくしようというだけです。

 また、将来の電力供給については、原発推進派は一社による地域独占を前提にしているので“原発推進は不可避”と叫んでいます。(それに対して、原発反対派は電力供給体制に関する考察なしに感情論で“脱原発、再生可能エネルギーだ”と叫んでいるので、これも問題ではあります)。

 しかし、前代未聞の震災・津波と原発事故を経験した日本が、電力供給についてだけは震災前の延長線上を考えるだけで良いのでしょうか。私は個人的に、電力供給についても、ゼロから新しい姿を目指すべきではないかと思います。

 それは、今回の震災で、日本が世界に誇ってきた安心・安全という価値観は地に落ちてしまったからです。その信頼の回復は並大抵ではありません。かつ、世論を考えると、原発については新規立地はもちろん、定期点検中の原子炉の再稼働も困難になるはずです。

 それならば、震災を機に、原発に頼らなくても大丈夫な電力供給体制という新たな日本ならではの価値観の確立を目指す位の“大風呂敷”が必要ではないでしょうか。そのために必要なのは、一社による地域独占を変革することです。(ちなみに、私は原子力産業を捨てろとは言っていません。1990年代の米国がそうであったように、国内で原発がダメでも、原子力産業は海外でビジネスを拡大できます)

 例えば、超伝導の技術も使った直流送電を積極的に導入すれば、西日本から東日本に送電することがもっと容易になるようです。送電の地域独占を緩和することでその積極的な導入が可能になれば、今後数年は続くであろう東日本の電力不足の解消にも貢献します。

 そして、既存の電力供給体制が前提の規制が緩和されて電源の分散化が容易になれば、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを自家発電に取り入れるところが増え、それが更なる技術進歩とコスト低減につながります。また、メタンハイドレードやオーランチオキトリウム(藻を使った代替燃料)など様々な新エネルギーの実用化にもつながるはずです。

 関東大震災後に帝都復興院総裁となった後藤新平は、壮大な規模の震災復興計画を考え、“大風呂敷”と揶揄されました。しかし、最初に大風呂敷を広げたからこそ、部分的とは言え先進的な取り組みが復興段階で可能になったと言えるのではないでしょうか。

 そう考えると、東北の復旧・復興についてはもちろん、震災後の電力供給体制を考えるに当たっても、現代の後藤新平と言える人が現れることが必要ではないでしょうか。そうした人が電力の地域独占を打破することが、震災で失った“安心・安全”に代わる新たな日本の価値観の確立につながるはずです。

 そのためにも、“脱原発”、“原発推進”といった不毛な議論は止めるべきです。そうした表面だけのゼロ・イチの議論に終始しては、電力供給体制は何も変わらず、地域独占を維持したい電力産業を利するだけです。



復興のところまで書きたかったのですが、予想通り長くなりすぎてしまい、
また次の記事で書かせていただきます。
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2011.04.30 Sat l 仕事的な情報 l コメント (0) トラックバック (0) l top
さて、企画屋の「はしくれ」として、いつかlogしておきたかった、今回の復興についての記事。
未曾有の危機的状況からどうやって日本を復興するのか。
復興という言い方がいいのか。それとも再生なのか。復活なのか。誕生なのか。
そのはじめの「定義」が、皆のモチベーションを左右するという点で、
非常に大切だと想っています。

弊社も今回の震災で痛手を負いましたが、即致命的ではなかったために、かえって非常に不味い「中途半端な危機感」しかもてなかったのではないかと危惧しています。
先ずは「目に見える状況の復活」。それに中途半端に時間がかかったものだから、その間に大きな・・・将来的な危険の察知を忘れてしまう。
6月ショックとか8月ショックとか言われていますが、「そんなものより先ず目先だ」という議論が先行し、それにリソースが割かれ、2:8理論でいう「2」の部分の人たちが疲弊し、そして結果的にまともなリスクアセスメントも無しに危機を迎えてしまう。そんな状況だけは避けたい、という企画屋としての最低限のプライドはあるのですが・・・

本音からいえば、これを機会に、ストックポイントや流通そのものの見直し、今まで見てきた川上・川下産業のまた更に川上・川下までの可視化を含めたコントロール体制構築といった、サプライチェーンそのもの見直しから、従来から歴史的についてしまった脂肪分・・・いわゆる「ぜい肉」のそぎ落とし・・・危機的状況が共有化されているからこそできる抜本的且つ徹底的なリストラ、組織編成の見直し、そしてそれらをITと絡めた抜本的な自動化・可視化によって、コントロール可能な運用体制を作りたい、というところですが、もちろん費用、リソース、何より危機感と抵抗勢力という点から、実現できないのが現状です。

「のどもと過ぎれば・・」とはよく言ったもので、やけどしそうな熱いものをやっと飲み込んだといって安心していたら、頭の上にグラグラ煮立った鍋が今にも落ちそうな状況であることを忘れていた・・・それがなかなか落ちないものだから、危機感に慣れてしまい安心してしまう。そういう状況であるという認識が、なかなかもてないのも現状の悲しさではあります。

で、日本の話に戻りますと、非常に興味深い記事がありました。中心型首都機能論から脱するべきという記事です。

脱中心型首都機能論とは何か? - 京極 真
配信元:アゴラ編集部


1.再燃する首都機能移転論
東日本大震災は、一旦幕引きされかけた首都機能移転論に再び灯をともすことになった。国土のわずか0.6%に首都機能を集中させる現行方式のリスクが、東日本大震災によって顕在化したためである。

超党派の「危機管理都市推進議員連盟(NEMIC)」は、首都・東京が大災害やテロなどによって機能不全に陥った場合に、代替機能の役割を担う「副首都」 建設にむけて検討をはじめている。首都・東京をバックアップできる副首都を複数用意することにより、首都機能一極集中型よりもリスクヘッジできるようにし ようというのだ。

2.首都機能
一極集中型と首都機能バックアップ型は同じ穴の狢である 筆者は首都機能一極集中型も、今回NEMICが進める首都機能バックアップ型も、国家的危機管理という観点からみれば同じ穴の狢ではないか、と考えてい る。というのも、両者ともに首都機能の中心を担う都市が想定されているという点で同型の首都機能のあり方だからである。
首 都機能一極集中型は、特定の都市にほとんどすべてが集まるため、リスクヘッジという点では極めてまずい。おそらくこれは誰にでもわかることである。 一方、首都機能バックアップ型は、首都と複数の副首都がデュアルに機能することになるため、一見すると首都機能一極集中型とは異なるように思われるかもし れない。

しかしこれは、複数の副首都の一番の土台にメインの首都があり、それに乗りかかるかたちで副首都がバックアップとして機能することになるため、つまるとこ ろ首都機能一極集中型と何らかわるところがないのである。つまり、首都機能バックアップ型は、特定の都市が首都を担うという点で首都機能一極集中型と同型 なのだ。

そのため、首都機能一極集中型と首都機能バックアップ型は、中心にある都市が大災害やテロで機能不全に陥ってしまえば、いずれにしても日本全体が大混乱に 陥る事態を回避できないと考えられる。僕はこのような、首都機能が特定の都市に依存した議論を指して「中心型首都機能論」と呼んでいる。

3.首都機能移転論の成立条件
ここにきて首都機能移転論が再燃した理由は、国家的危機管理が根本モチーフである。つまり、首都が大災害やテロなどに見舞われても、日本全体が機能不全に陥らないようにするにはどうすればいいか、という切実な問いが、首都機能移転論再燃のドライバであったと言える。

こうしたモチーフに届く首都機能は、(1)特定の都市に首都の中心を置かないこと、そして(2)首都機能の一部が麻痺しても他のところで相補的なネット ワークが形成されること、の2つの条件を満たしている必要があると考えられる。なぜなら、この2条件が満たされることによって、一部で機能不全が長じても 多方向から代替機能が働き、日本全体で機能不全に陥る事態を避ける可能性が担保されるためだ。

たとえるなら、インターネットのようなシステムとして首都機能を再編させることが、国家的危機管理というモチーフに届きうる可能性の方法だと考えられるのである。筆者はこのような首都機能の考え方を指して「脱中心型首都機能論」と呼んでいる。

4.脱中心型首都機能論のすすめ
脱中心型首都機能論の特長は、首都機能を複数の地域に分散させるものの、特定の地域で特定の機能を担わないと考える点にある。それでは、特定の機能が中心 性を帯びてしまい、そこがやられてしまえば他の代替機能が働かないためだ。 そうではなく、脱中心型首都機能論では、日頃から複数の地域が連立的なかたちで業務にあたると考えることになる。つまり、複数の地域で首都機能が併存する 関係性のなかに、首都機能の全体像を見るのである。

たとえるなら、インターネット様の首都機能を実質化するのだ。 この発想では、首都機能の一元化が打消されるぶん、政治や行政の無駄を生み出すのではないか、あるいは経済活動が非効率になるのではないか、という疑問を 持たせるかもしれない。そうした問題は国民ID制度の導入と情報のクラウド化によって技術的に回避できるのではなかろうか。

国民ID制度の導入は、平時であれば国民の理解を得られにくいだろうが、東日本大震災によって国家的危機管理という問題意識を共有しやすいと考えられるた め、その文脈から導入を進めていける可能性があると思われる。また、国家情報のクラウド化はITの発展によって実現できる見通しは立つはずである。

もちろん、情報漏洩の問題は残るものの、「尖閣ビデオ」の流出さわぎにみられるように、クラウド化されていなくても漏れるものは漏れるのである。

この他にも脱中心型首都機能論には、それにかかる費用などの問題は残る。しかし、国家的危機管理という観点からみれば、首都機能一極集中型や首都機能バッ クアップ型よりも優れた点があると考えられる。東日本大震災の教訓を活かすためにも、首都機能移転論の熟議を期待したい。

(京極真 吉備国際大学大学院保健科学研究科准教授)



まったくその通り。しかし、効率を考えるとどうしてもある一定の中心部が必要になることも確か。
理想論でしかありませんが、たとえば福岡、広島、大阪、愛知、石川、東京、北海道、そして宮城県。それらがそれぞれ首都機能に近い機能を有する。現在でも同じように各地域の中心都市ではありますが、更に首都機能に近くなるようにする。特に宮城は、まったく新しい形の都市のあり方を問われることになるでしょう。衛星写真で見たら全く異なる様相になるくらいに。

道州制導入、という記事もあります。

今こそ道州制の導入を - 松本徹三
配信元:アゴラ編集部


残念ながら今回の経済不況の根は深く、どんな施策を講じてみても簡単には脱出は不可能ではないかと思われます。日本では、更に悪いことに、指導者不在、政治不信がこれに重なり、心理的にも閉塞感が継続しそうです。こういう時には、とにかく何か新機軸を打ち出し、多くの国民に「変革への期待」を与えることが必要です。
私は、長い間議論されては来たものの、このところ一向に進展が見られていない「地方分権の促進(道州制の導入)」が、この目的のための格好のテーマになると思っています。

先ず、現在の不況の克服には、「内需拡大」しか手がありません。輸出市場の回復は日本だけの力ではどうしようもないからです。内需拡大の決め手の一つとして期待できることに、「中高年層の潜在需要の開拓」と「地方の活性化」がありますが、前者にとっての必須条件である「社会保険制度への信頼回復」も、後者にとっての必須条件である「地方分権の促進」も、共に政治の力によって実現が可能です。(逆に言えば、「強い政治力」によってしか実現できないものです。)経済界が手詰まりでどうにも動けず、折角「政治」に出番が回ってきたのに、政治家が今このテーマに真剣に取り組まないとすれば、一体他の何をしようというのでしょうか?

前者についての議論は別の機会に譲るとして、ここでは後者について考えてみたいと思います。

道州制が導入され、大きな権限を持った新しい州知事の選挙が行われれば、国民はこれに注視します。選ばれた新しい知事は、他の知事と競い合って、それぞれの州の目覚しい発展を目論むでしょうから、さまざまなアイデアが開花し、さまざまな経済効果を生み出すでしょう。施策次第によっては、東京で職を失った人達の故郷へのUターンも促進されるかもしれません。

私は、昨年11月7日付のブログ「アメリカ大統領選に思う」で、「首相公選」によって、米国の大統領選挙に見られたような熱気を日本にも創り出すべきだという趣旨のことを申し上げましたが、勿論、その早期実現が難しいことも分かっています。しかし、州知事の場合は初めから直接選挙ですし、ここで実績を上げ、国民レベルでの人気を得た人が、将来の首相候補となることも大いにありうるわけですから、道州制の知事選挙は、将来の「首相公選」への実験的な第一歩と位置づけることも出来るでしょう。

日本は「東京への一極集中」が極端な国です。もともとが「合州国」である米国は勿論、英国とフランス以外の欧州の各国は、ドイツを典型例として、もっと各都市が競い合っています。日本が「東京一極集中」になったのは、中央の官僚が力を持ちすぎたことにその一因があると思われ、この点は日本同様に官僚の力が強いフランスの「パリ一極集中」に同類項を見ることが出来ますが、現在のEUが「パリ一極集中」になることは金輪際ありえません。そのことを考えるにつけても、日本の道州制を考える時には、思い切って「EUに範を求める」位の変革を考えるべきかもしれません。

「今こそ過激な改革をやらねば、『十年河清を待つ』ことになりかねず、日本の国際的競争力強化の可能性はますます遠のく」という強い危機感から、私は、ここで一つの「超過激な提案」をしてみたいと思います。それは、道州制の導入だけにとどまらず、更にもう一歩踏み込んで、「省庁の分散」を行うことです。

「首都移転」論者は、この際、ワシントンやキャンベラやオタワやブラジリアのように、全ての首都機能を新首都に移してしまえばよいではないかと言うかもしれませんが、これで喜ぶのは土木建設業者ぐらいで、仕掛けが大きいだけ副作用も大きくなる割には、「首都移転」のもたらす長期的効果には疑問が残ります。各企業は、場所は変わっても、相変わらず「官庁や政治家の事務所に詣でる」のをやめることはなく、結局は「場所を移動する」ことに要する時間や経費の無駄使いが増えるだけのことになるのではないでしょうか。

それよりもやるべきは、「各省庁が、電子的な遠隔面談、遠隔会議以外の全ての面談や会議をやめる」ことです。つまり、各省庁は正面の玄関口を廃止し、訪問者は誰も建物の中に入れないことにすれば、官庁の所在地が何処であれ、「官庁詣で」は一切なくなります。

民間企業が官僚と折衝するのは勿論、政治家が官僚の「ご進講」を受けたり、官僚が政治家に「根回し」をしたりするのも、全て電子的な手段によるしかない(従って、当然記録が残される)ということになれば、全ての政策の起案と実行のプロセスが、完全な透明性を保証されることになります。多くの政治家が「不便である」といって難色を示すでしょうが、背中をさすったり、肩を抱いたりする以外は、映像と音声で全ての仕事はこなせるはずなのですから、「『永久に人に知られることのない』ことが保証された『密室』でなければ話が出来ない」ということがない限りは、そもそも「これで不便になる」ということはないはずです。

その結果として、各公官庁が、例えば「東京周辺100キロ圏内の諸中小都市」に分散され、地方都市の活性化をもたらすことなども可能になるでしょうが、こんなことは比較的小さな付随効果に過ぎないでしょう。長年続いてきた「政治家と官僚との関係」を抜本的に変えることこそ、日本の行政と立法のあり方に大きな変革のインパクトを与え、新しい活力を日本全体に与えることになるでしょう。

ここまで考える政治家が何故今出てこないのでしょうか? こういう政治家が出てきてこそ、初めて国民はこぞって喝采を送り、国民の心が一つにまとまって、未曾有の経済危機を克服するベースが作られるのだと、私は思います。



私はこの意見にとても賛成です。道州制というより、上記の如く、各地の中心都市の機能と役割を明確化し、一極集中をなくすこと、これが新しいグランドデザインではないかと考えます。

内容は違えど、均一か集中化、という内容の記事がありました。

「日本の救いはグローバルスタンダードから最も遠いところにあった」震災で露呈した均一化と集中に頼る国づくりの限界――浜矩子・同志社大学大学院教授に聞く
配信元:ダイアモンドオンライン


「均一化」と「集中」。戦後日本の国づくりの特徴を端的に概念化するならば、この二つの言葉に収斂されるだろう。それは、戦後の焼け野原からの復 興、そしてその後の経済成長を支えた“二輪”の概念である。しかし、3月11日に東日本を襲った未曽有の震災と、いまだ出口の見えない福島原発震災は、均一化と集中に依存するこの国のあり方が危機に対していかに脆いかという現実をわれわれに突きつけた。
 大きければ強く効率的であるという均一化の論理のもとに組み立てられたものの多くは、今回の震災で、あっけなく崩れ落ちた。物流システムは各所で機能不全に陥り、大手スーパーチェーンや大手コンビニチェーンはちょっとしたパニック的な購買行動や買い溜めによって食料品や日用品の不足どころか枯渇に 陥った。 富と都市機能は東京圏に寄せ集めるという集中は、福島原発事故を機に深刻な電力不足問題を引き起こし、交通インフラの大混乱を招いた。
 私は今、声を大にして提唱したい。均一化ではなく「多様化」、集中ではなく「分散」こそが、復興、いや日本の新興を論じるときの新たな二輪になるべきだ、と。
 大手スーパーやコンビニにモノがないとき、救いの手はどこにあったか。それは、グローバルスタンダードとは無縁なところで生真面目に営んでいた零細個人商店にあった。前世紀の遺物と揶揄されていた、存在を忘れられつつあった零細でローカルなお店に、懐中電灯や乾電池、水やティッシュペーパー、パン はあった。グローバルスタンダードの常識からは最も遠いところで、救いは発見できたのである。

われわれは、こう信じていた。グローバルジャングルの中で日々運営されている日本経済においては、強いものと大きなもののみが勝ち残っていく、そし て日本の(成長の)ためにもそうあるべきだ、と。また、現代はグローバルスタンダードへの収斂の時代であり、均一化と集中のグローバルスタンダードに早く準拠した姿・形を整えないと、落伍してしまう、と。
 しかし、現実にはとうの昔にそのような論理は、時代に合わなくなっていたのではないか。
 世界経済に目を向けても、対外債務国と債権国に色分けされた集中は、債務国の財政危機を顕在化させ、いま是正を余儀なくされている。人・モノ・カ ネはなかんずく国境を超えるのだから、債権と債務がどこかに集中していても、どんぶり勘定の世界ではゼロであるがゆえに問題ない、それがグローバル時代だ という論理には無理があった。メタボなキリギリスを蟻たちは支えきれない。世界各所で国家の財政危機リスクが増大している。
 いうまでもなく、この変化は、震災前から見えていたものだ。しかし、戦後復興の成功体験を引きずる中で、日本はグローバルスタンダードへの追随という無定見のうえに胡坐をかき、変化を避けていたのではないか。すでに均一化と集中で成長を目指すモデルから卒業した経済になっていながら、思考を停止していなかったか。戦後初の選挙による政権交代が実現し、新たに国家運営の任を負った民主党の新成長戦略には当初期待が寄せられたが、ふたを開けてみれば、 従来どおり、均一化と集中の発想で描かれたものにすぎなかった。 
 むろん、私も成長や競争の意義を否定しているわけではない。すべてがローカル・零細でないとダメなどと言っているわけでもない。ただ、今、日本人が考慮すべきは、小さいものは小さいものなりに、弱いものは弱いものなりに、強大なるものは強大なるものなりに、日本経済という生態系、グローバルジャングルという生態系の中で、厳然たる役割があるということだと思う。普段は大きなものが大きな顔をしていてよいが、一方で小さくて弱いものも脈々としっかりと役割を果たしている、そのいうなれば共存共栄の生態系の底力、重要性を軽視することの恐ろしさは今回の震災を機に痛感できたはずだ。

 さて、復興である。われわれは、“復元”の方向にだけ進むことは避けるべきだ。復興を急ぎたいという気持ちは分かるが、急がば回れである。どんな姿を構築するかという落ち着いた検討が今こそ必要だ。もちろんライフラインの復元は喫緊の課題であり、最優先すべきだ。しかし、それ以外の点では、復元の 必要があるもの、新興すべきもの、廃棄すべきものをしっかりと仕分けする必要がある。ゆとりのない現状では大変な作業であることは承知しているが、どうしても復元しなければならないものと、そうでないものの仕分けぐらいはできるだろう。
 そのとき中央がすべてを決めていては、何も変わらない。復興のベクトルを示し、お金を集めて提供する役割は、国が集中的に担ってもいいが、あとは地元で使い途を考えるべきだ。地域社会という、いうなれば小宇宙の中で、大きく強いものと、小さくて弱いものが共存共栄できるパターンを描くべきだ。それに則って、使える金を上手に分かち合えばいい。
 先述した小売の世界を例に上げれば、大手スーパーが個人商店を次々と買収しその領域に浸食していくのではなく、場合によっては棲み分けを考えても よいのではないか。たとえば、大手スーパーで売っている商品はこれだが、違うものが欲しければあの店(個人商店)に行ってくれとネットワークをお互いに支え合う。強いものは弱いものを支えるが、弱いものも強いものを下支えする。各自治体はそれぞれの小宇宙にマッチしたモノを作っていくために、お金の使い途を考えればよい。
 私は、各々の自治体が自己完結的に活力と多様性と創造性を持った小宇宙となり、その集合体として日本経済が存在できれば、足腰のしっかりした国になると思う。これまでの論理で復元するためだけに補正予算を繰り返し組んでいくことが復興だということであるならば、ただでさえ財政状況の厳しい日本に降 り注がれる世界の目がいっそう厳しくなることは必定だ。そうなれば、今回の震災は“非日常”の出来事であるにもかかわらず、過度の円安や金利上昇を招き、 われわれの“日常”に侵食してくることだろう。それは亡国の道だ。
 世界を驚嘆させる新しい経済モデルの絵を描き、その財源を確保するためにあらんかぎりのクリエイティビティを発揮する必要がある。増税による税収 を償還財源の裏付けとする復興債のようなものも検討に値するだろうし、あるいいは突拍子もなく聞こえるかもしれないが、IMF(国際通貨基金)から復興計 画に絞って融資を受けるという可能性だって探ってみてもいいのではないか。また、復興紙幣については、私も基本は慎重な考えだが、これを機に、そのメリッ ト・デメリットを考えてみるのもいいだろう。
 ただし、繰り返すが、議論の大前提はあくまで単なる復元ではない日本新興計画の提示である。そこまでしてはじめて、日本は賢さの鏡となり、あらためて世界のお手本となる可能性を持てるはずだ。(談)



どういう形の日本が作られていくのか、無責任な言い方ではありますが、わかりません。
しかし、かつて見てきたSFの世界が現実になるかもしれません。個人的にはそうであってほしい。子供心に見たそのSFの世界は、少なくとも光り輝くものであったから。
攻殻機動隊で表現されていた日本、サマーウォーズで出てきたようなネットワークシステム中心の世の中。
これを機会に新しい日本ができてくることを心から祈りつつ、自分は自分の職務と責任を果たすことで、そんな新しい日本の誕生に貢献したいと想います。

そのRebirthへの道において、無くてはならないのが「信念」を持った「人」の存在と、それが生きる「場の設営」だと想います。
もちろん「お金」「時間」「モノ」という基本的なものはありますが、人がなければ間違った方向に進みます。
まるでこの間までブームになっていた幕末に近いことが、今まさに起ころうとしていますかね・・?
歴史に学ぶとはよく言ったもので、時代は違えど、マインドは同じなはずです。

「もはやすべての行きがかりをなげうって、入閣するほかない」
配信元:日経ビジネスオンライン


前略

「とにかく、一日たりとも国務を放棄しておくわけにはいかない。この惨状を目の前に見て、躊躇している場合ではない。山本さんにも、そう話して賛成 しておられるから、大蔵大臣を引き受けてもらいたい。日本銀行のことは、副総裁もおるし、他にも人はある。きみが大蔵大臣として指導すればよろしい。一刻 も躊躇しておるときではない。これから麻布のわが家に回って、話をしようじゃないか」
 車中と後藤邸での会談を経て、井上は蔵相への就任要請を受けた。
 午後5時、ようやく閣僚がそろう。摂政宮(のちの昭和天皇)が臨席して親任式が行われたのは午後7時40分。場所は赤坂離宮が選ばれた。建物のな かは危険だったので庭園の東屋「萩の茶屋」にテントを張った。電燈もないテントで、蝋燭の明かりを頼りに摂政宮から新閣僚に親任状が手渡された。ここに 「震災内閣」が誕生した。
 親任式を終えて麻布の自邸に戻った後藤は、母屋の二階奥の和室に籠もると巻紙と筆を手にして、墨痕鮮やかに「根本策」を書きつけた。


一、遷都をしてはならない

二、復興費には30億円が必要

三、欧米最新の都市計画を採用して、わが国にふさわしき新都を造営する

四、都市計画を実施するためには地主に対して断固たる態度をとる
 (過去において東京の地主は、街が改造された際にも公共の原則が求める犠牲を払わず、不当な利益を得ている)。


 後藤は、まず、遷都論を葬った。陸軍参謀本部の将校から「百年に一度、大地震が起きるといわれる東京を都とするのは国防上、地勢上よろしくない、 朝鮮半島京城の南の竜山、播州加古川、八王子付近を候補地として遷都すべき」との説が浮上していたが、遷都が政治、経済、文化に及ぼす影響、莫大なコスト を考えれば「空論にすぎぬ」と否定した。
 復興費30億円はいかにも巨額だ。震災が起きた年の国家予算は〈13億7千万円〉だった。国家予算の2倍でも足りない。井上蔵相は、どう反応するのか。
 三、の欧米型の新都造営とは「燃えない都市」を建設することだった。広い幅の道路を通し、火災が類焼する危険を断つ。公園を随所に配して災害時の 避難場所を確保する。建物は不燃のコンクリートや石、煉瓦を使って頑強にこしらえる……現代につながる「災害に強い街」が念頭にあった。
 こうした都市計画を実行するうえで、財源問題と並んでゆく手をはばむ壁になると予想されたのが、四番目の「地主」の存在だ。限られた都市内で道路 を広げ、公園をつくるには誰かが土地を提供しなければならない。各地主が共に一定の割合の土地を出し、区画を整えて道路を通し、宅地を定めて公園を開く。 安全な都市基盤ができれば、街に人が集まり、繁栄して地価が上がる。地価上昇で地主には大きな利益がころがりこむ。
 にもかかわらず、維新以降、東京の街が改造されるたびに一握りの大地主は何ら犠牲を払うことなく、不当な利益を得てきた、と後藤は思った。帝都復興においては断固たる態度で臨む、と力瘤をつくった。
 だが、この論法がはたして土地に執着する地主層に通じるのだろうか……。



そして、Wikipediaに関東大震災再開発事業についての興味深い記事があります。


こうして後藤は即ちに内務官僚に 復興計画策定を指示、あわせて復興組織づくりを進めたが、事業規模は当時の経済状況をかんがみて縮小され復興の組織や意志決定も後藤が思うようにはならな かった。当初の焼土買い上げという「大風呂敷」は実現せずに農地整序につかっていた区画整理が展開されることとなった。当初は帝都復興計画では30億円と いう予算を計上していたが、さらに財政事情を考慮し、最低これだけはというぎりぎりの案件約10億円の要求となった。復興計画審議のために設置された3つ の審議機関のうち帝都復興参与会と帝都復興協議会は無事通過するが、帝都復興審議会では大反対され、特別委員会での大幅縮小で決定、5億円強になり議会提 出の運びとなったが、それでも議会で復興予算費をさらに2割カットと復興院事務費の全額カットで予算修正、これを忍従して復興計画は確定された。どんどん 規模が縮小されていく帝都復興がようやく動き出した矢先こんどは翌年1月の虎ノ門事件を契機に山本内閣は総辞職し後藤自身も失脚することになる。
後藤新平の当初の構想までは実現しなかったが、現在の内堀通りや靖国通り、昭和通りなど都心・下町のすべての街路はこの復興事業によって整備されたもので、この東京の骨格は現在に至るまで変化していない。また震災による焼失区域1100万坪の全域に対する土地区画整理事業を断行する。区画整理は最終的に全体を66地区に分け、各整理委員会で侃々諤々の議論を行いながら事業が進められた。この結果密集市街地の裏宅地や畦道のまま市街化した地域は一掃され、いずれも幅4m以上の生活道路網が形成され、同時に上下水道とガス等の基盤も整備された。
そのほか東京市中の川に架かっていた橋も大部分が甚大な損傷を被り、このため大地震にも持ちこたえられる恒久的な橋を計画的に架ける必要が生じた。隅田川にいまなお震災復興橋梁として架かる橋は下流から順に、相生、永代、清洲、両国、蔵前、厩、駒形、吾妻、言問の9つの橋梁があり、震災で壊れなかった新大橋を加え、隅田川十橋と称されている。9つの橋のうち、両国、厩、吾妻の三橋は東京市が担当、残りの6つの橋は復興院(のち内務省復興局)が担当する。そのため内務省東京復興局に橋梁課が創設された。
設計に当たっては復興帝都にふさわしい意匠を成すために外国事例や画家や作家などの意見を聞くなどして、建築家野田俊彦の「全て同一形式」意見を一蹴。また建築家の協力が求められることとなり、当時の逓信省の営繕部局に勤務する建築家スタッフをスカウトして設計組織を形成していった。部長太田圓三や課長の田中豊はまず山田守を、続いて山田の推挙で山口文象を嘱託とする。山口は後に日本電力の嘱託技師となる。山田は聖橋等を担当。山口は数寄屋橋、清洲橋、八重洲橋を はじめ、数多くを手がける。復興局が手がけた橋の数は100以上といわれている。帝都の門たる第一橋梁の永代橋はアーチ橋とし、第二橋梁の清洲橋はライン 川にかかるケルンの吊橋をモデルとするやわらかさを感じさせる案を採用し、橋の博覧会ともいえるような状況が生じた。こうして隅田川の橋梁群は個々の橋が 多様なデザインを主張しながら、全体として都市景観に高いシンボル性をもたらすこととなる。作家永井荷風も随筆「深川の散歩」の中で、清洲橋からの隅田川の眺望を書き残している。




そして、上記のごとく様々な識者の存在も重要であるが、指導者・・・カリスマの存在も不可欠です。

歴史的国家危機に決死の覚悟で臨んだ最高指導者 「チャーチル元首相」と「菅首相」の決定的な違い
引用:ダイヤモンドオンライン


前略

ブレない主張、見事な洞察力、勇気で
国民の圧倒的な信頼を得たチャーチル元首相 報道によると、民主党内には菅首相をイギリスのチャーチル元首相になぞらえる向きもあるらしい。
 チャーチルは、ナチ・ヒトラーと対決して、挙国政権の首相となり、戦いを勝利に導いて英国を救い、世界を救った。「国家危機」と「挙国政権」をキーワードとすれば、チャーチルを思い浮かべることもわからないではない。しかし、肝心なところは全く違っている。
 チャーチルは、ヒトラーの台頭以来、その邪悪さを見抜き、10年の“はぐれ鳥”となることもいとわず、徹頭徹尾ナチとヒトラーを排撃し、英国民に妥協なき戦いを訴え続けてきた。
 一貫してブレない主張、見事な洞察力、孤立無援でも戦い続けた勇気。39年にヒトラーがポーランドに侵攻して、大戦が始まると、英国民はチャーチ ルの洞察の正しさを思い知らされる。そして、英国民と議会はこの“はぐれ鳥”に目を向け、翌40年にチャーチルを首相にして国家危機に臨む最高指導権を彼 に委ねたのだ。
 英国は、このとき、ほぼ完全なまでに一致結束していた。当時の国民的信頼からすれば、内閣支持率は優に90%を越えていただろう。
 チャーチルの指導のもとイギリスは1つになってヒトラーに立ち向かう。激しいロンドンの空爆にも耐え、最終的に勝利を手にしたのだ。
 国家危機を乗り切るためには、指導者に圧倒的な国民的信頼が不可欠であることを歴史は教えている。
 菅首相はむしろ、自分に資格と能力が不足していると感じてチャーチル登場の道を開いた前の首相、チェンバレンに学んでほしい。



そして人があつまれば、議論の場の設定が大事。自分も震災後に上司代理として数々の社内会議に出たが、有効性が高く建設的な議論がなされる会議にはお目にかかることができなかった。せめて自分の関係しているところについては実のある議論を続けたいと想います。

東日本大震災復興構想会議は要らない
配信元:ダイヤモンドオンライン


ダメ会社の会議に似ている
 五百旗頭真防衛大学校長を議長とする東日本大震災復興構想会議が発足し、4月14日に第1回目の会合が行われた。
 不謹慎かも知れないが、このニュースを見て最初に思ったのは、ダメな会社の会議に似ているということだった。経営が上手くいっていない会社、特に、社長が事業を把握して指示を出すことが出来ない会社は、しばしば、経営課題が発生するたびにこの課題に向けた「会議」や「委員会」を発足させる。
 たとえば、具体名は挙げないが日本の運用会社の場合、親会社である大手金融機関から、運用の仕事に詳しいとはとても言えない天下り社長が経営しているケースがしばしばある。運用会社の管理職社員は実のところ時間が余っている場合が多いという事情もあるのだが、この種の会社では、「運用」や「商品企画」、あるいは「リスク管理」といったテーマで次々と会議や委員会が発足し、多くの社員を巻き込む会議が行われることが多い。また、社長の声がけで、外部の専門家を講師に呼ぶ「勉強会」が行われることも多い。
 しかし、本来、経営者が社業を十分把握していれば、個々の社員の貴重な時間を多くの会議に費やすのではなく、プロフェッショナルな仕事に使わせるべきだ。経営者は、方針を提示すると共に必要な指示なり監督なりを行っていればいい。方針の決定や伝達の仕組みとして必要最小限の時間で会議を使うことはあってもいいが、会社に必要なのは、会議ではなく仕事だ。アイデアを募るために会議を行う、などというのは、経営者が機能していない会社の愚行だ。
 東日本大震災復興構想会議は、被災地から3名の県知事がメンバーに名を連ねているが、この他に、建築家、脚本家、学校校長、僧侶など雑多な分野からの識者が加わる合計15人が本会議のメンバーとなっている。
 復興構想会議は、何かを決定する会議なのか。それとも首相その他の「勉強会」的位置づけなのか。同会議が、そもそもどの程度の権限を持っていて、 何を決めるのかが曖昧である点からして、スタートから拙いと言わざるを得ないが、初回の会合から、原発問題を含めて議論するかどうかで異論が出たり、復興財源に関していきなり増税の話が出たりと、混乱した内容になった。

会議の設置を決めた4月11日付けの閣議決定では「活力ある日本の再生につながる復興構想を早期に取りまとめる」とあるように、この会議の結果を踏まえて、具体的な復興計画が策定される、という建て付けのようだ。そうでなければ、最大限に評価しても「ただの勉強会」の位置づけにすぎない。
 そして、6月末を目処に第一次の提言をまとめることが、初回の会合で確認された。
 これは、2ヶ月以上先のことであり、この会議があるせいで、復興事業の実施が2ヶ月も遅れかねないということではないだろうか。この会議自体が復興の早期実施を妨げる存在になりかねない。
権限と責任のある者が早く動け本来であれば、首相と重要閣僚、被災した自治体の知事が集まって重要方針を決めて、必要があれば関連法案を国会に提出し、さっそく復興事業に取りかかるべきだ。
 復興の方針をまず首相の責任で国民に示し、意見や批判を募り、被災地自治体の要望を聞いた上で、事業に取りかかったり、関連法案を提出したりすればいい。
 しかし、菅首相は、震災発生から1月以上たったこの期に及んでも、「野党にも(復興の)青写真を作る段階から参加していただきたい」(4月12日、記者会見)と呼びかけている。「青写真」は、先ず菅首相の責任の下で政府が示すべきなのだが、メンバーを集めて意見を募ることが自分の仕事だと思って いるようだ。仕事の分からない社長と同様の状態といえる。
 会議の提出資料を見ると、委員である達増拓也岩手県知事が提出した主に被災地の8自治体の県・道知事連名の「東日本大震災に係る要望書」という書類がある。
 千葉県や東京都といった震災被害に関連の深い自治体の意見が反映されていない点に不備があるが、被災地域からの要望は、既にある程度まとまっている。今は、政府が具体案を国民に問うべきタイミングだ。まとまりの無い会議を開いて、無駄な時間を費やすべきでない。
 尚、初回の会合にあって、敢えて注目点を挙げると、復興財源の資金調達に関する問題が挙げられよう。

五百旗頭議長が復興税の創設に言及して早速波紋を呼んだが、先の8知事の要望書には「必要な財源の確保のため、不足する国の財源は、日銀の国債引受により対処すべきこと」(要望書3ページ。「(2)特別立法による被災者生活再建支援の特例的基金の創設」の項)とある。
 重要な問題に関して、早速意見が割れているようだが(割れていること自体は構わないし、議論は大いに結構だ)、果たして、このメンバー達はこの問題について実のある議論が出来るのだろうか。
 この話題の一方の当事者でもある五百旗頭議長の手腕が興味深い。
資金を地方に、個人に 復興にあたっては、どこにどのような街を作り、どのように各種のインフラストラクチャーを構築するかについて、多くの意見があり、議論があり得る。しかし、煎じ詰めると、重要なのは、現地の人々の意思であり希望だろう。
 国との調整が必要なものや、自治体間の調整が必要なものもあるだろうが、基本的には、使える予算を自治体に渡して、何をするかは地方地方で決めたらいい。国は、「お金は出すし、協力は惜しまないが、口は出さない」優しいスポンサーのような存在になるべきだ。
 また、広範囲な被災者に対して、生活支援のための現金を早急に支給すべきだ。復興予算の一定割合(たとえば、3割程度)は被災者個人に支給すると 決めて、早急に部分的支払いを開始すべきではないだろうか。配分の決定が遅れて、善意で集まった義援金さえも支払われていない現状は動きが遅すぎる。
「地方分権」、「コンクリートから人へ」という民主党がかつて掲げた理念を、大災害の克服にあたって、もう一度思い出すべき時ではないだろうか。
 菅首相のなすべき事は、財源と権限を早急に然るべき当事者に配分することであって、中央政府で復興の青写真作りを抱え込んで政権の座に粘ることではない。



今回の未曾有の大惨事は、都市モデルの変革、都市と地方のあり方、人と人、モノとモノ、モノと人のつながりが大きく変わる機会です。
どういうタイミングでどういう風にリソースを集中し、どういう風に変革していくのか。普通の企業であればリーマンショックをはじめとして乗り越えてきた課題を、国全体が担うことになります。それももっと大きな規模で、そして「Point of No return」な状況で。

そしてスマートグリッドや再生可能エネルギーで原子力発電のすべてを置き換えることができなくても、電力供給の脆弱性回避のため、また新しい時代を築くため、国策として開発・事業化を急ぐことが肝要。今すぐにとはいわないけれど、国策として実施すべきです。原子力発電所の是非を問うより、科学の進歩・・・特に先進国として次の世代に何を引継ぐのか、という観点から、技術歴史論的な考え方も必要かと想います。すべて危険だからと否定しては、ガンダム、ドラえもん、鉄腕アトムもできないし、恒星間飛行もできない。

まぁもちろん、数百年単位での後の話でしょうけれど。

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2011.04.24 Sun l 仕事的な日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
東北関東大震災が発生して一ヶ月以上がたった今、
テレビ業界もそれなりに以前の姿に戻ってきました。

現在帰省している関西の自宅では、かなり前からそこそこCM含めて戻っていましたが、
あのACのCMの場合、TV局の収入はどうなったんだろう・・などと思っていましたが、
今日、記事を発見しましたのでのlogします。


「CM自粛」でテレビ各局打撃 減収額10億台も
引用元:IZA

405945_c185.jpg
大きな図へのリンク(配信元:IZAへ)

東日本大震災は、広告収入を頼りとする民放テレビ各局の業績にも影響を及ぼしている。震災直後のノーCM放送や、企業のCM自粛のため「減収額は10億円台後半」と見積もる局も。現在は通常CMが震災前の9割台にまで回復しているが、今後は節電で家電製品のCM減が予想されることなどから、「試練はむしろこれから」と懸念する声も強い。(三宅陽子)

テレビ各局は3月11日の地震発生後、24時間体制でニュースを伝え、CMなしの放送はテレビ朝日の74時間を最高に、TBS62時間、日本テレビ61時間、フジテレビ61時間、テレビ東京33時間にのぼった。

 CM枠が回復した後も、スポンサー企業の多くは自粛し、ACジャパンのCMに切り替えられた。CM総合研究所によると、CMは震災前に1日平均約4千回放送され、内訳は約5百社1千作品だったが、震災翌日には54回、19社30作品に激減。15日には4千回台に回復したが、ACのCMは22日までで「全体の約8割」という状況が続いた。

 ノーCM放送は基本的にテレビ局に広告料は入らないが、ACのCMは形としては企業側に配慮した差し替えであり、広告料の支払いについて「契約上はいただきたい」と放送局担当者は話す。だが、番組内容が予定と変更されているケースもあり、「支払額は今後の交渉になる」という。

 3月下旬の民放キー局の社長会見では、テレビ朝日の早河洋社長が「ノーCMによる減収は、10億円台の後半くらいになると思う」と表明。一方、年度末の短期間だったため平成22年度決算への影響は限定的との見方もあり、TBSの石原俊爾社長は「営業利益は確保できると思う」、テレビ東京の島田昌幸社長は「3月期決算自体はなんとか乗り切れそう」と語った。

 しかし、立教大の砂川浩慶准教授(メディア論)は「スポンサー企業は今後、新規の事業・サービスの立ち上げを控えるだろう。夏場に向けては節電で家電製品をPRできないケースも予想される。民放が受ける打撃はむしろこれから」と話す。また、「応援メッセージ風のCMが増えており、派手な宣伝は敬遠されるだろう」との声もある。

 CMがないNHKも震災の影響は大きい。被災した世帯・事業所の受信料6カ月間免除などで、松本正之会長は「少なくとも50億円規模の影響がある」と表明。経営計画では24年度からの受信料10%還元を掲げているが、「検討すべきものがかなり増えた」と慎重姿勢を強めている。



震災前もかなり収入減にて番組の内容が変化していったり、低価格番組をがんばってつくったり、それはそれでいい変化点だったのかもしれませんが、今回の震災でどうTVが変るのか、TV撮り溜め症候群の私にとっては興味があります。今クールではあまりチェックしていないせいか、どういうドラマ・バラエティーが始まるのかわかりませんが、注目してみたいと思います。

それと、この損失の補填、どう決着がつくのか・・・また確かに節電となってくると、家電のCMは流しにくい?それとも節電を推奨する家電CMが展開される? オール電化の宣伝とかどうなるのだろう・・・とか、難しい問題ですね。とにもかくにも経済はまわしていかないといけないわけだし。




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2011.04.17 Sun l バラエティー的な情報 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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